平成新選百人一首 (第十七) 山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行基(ぎょうき)=『玉葉集』卷十九 山鳥のほろほろと鳴く聲を聞きて、父が呼ぶ聲か、母が呼ぶ聲かと心騷ぐ、なつかしや、と今は亡き父や母をしのぶが此の歌なり。 十五歳にて行基は出家し、入唐し長安にて玄奘三藏より親しく指導を受けて歸國したる僧道昭を師とす。その影響によるものならむか、佛の教へを熱烈に説くかたはら、今いふ民間の社會奉仕事業にも大いに力を盡したり。近畿の地を中心に貯水池、道、港を作り、病人や貧窮者のための建物も數多く建て、庶民救濟の役に立てたり。 今も奈良市内に殘る名刹、元興寺には國寶に指定されし極樂防、禪室なる建造物ありて、奈良時代に直接繋がる遺品なり。その屋根は玉蟲の廚子同樣、先細の丸瓦を連ねたる「行基葺」と稱さるる獨特の葺き方にて、古代的立體感に富む。この名付けよりも推察せらるるが如く、行基の土木事業に深くかかはりたるは窺ひ知るに足る。 行基が民衆活動の盛んになりゆくを畏れたる官は、一時行基を弾圧せしが、時あたかも聖武帝の大佛建立發願に際會し、その技術と信望を利用すべく、行基を勧進(募金)に役立てむため大僧正に任命せり。協力を惜しまず大佛建立に行基なれども、残念なることに大佛開眼の三年前に没せり。 「ほろほろと」は、山鳥ないし雉の鳴く擬声語にて、あるいは涙などの如き細かきものの散る形容にも使はる。芭蕉の紀行文『笈の小文』に「ほろほろと山吹散るか瀧の音」とあるがその例なり。この句に續きて、高野山を望みて詠める次の句あり。 ちゝはゝのしきりにこひし雉の聲 芭蕉が行基の歌を踏へて作りしこと瞭然なり。『笈の小文』なる俳諧紀行文は、故郷伊賀上野にて「ふるさとや臍の緒に泣く年の暮」となる句を詠める旅なれば、ここ一連の句には行基に触發されたる故郷囘歸の想ひの籠れること誰も讀取れむ。 芭蕉を敬慕せる與謝蕪村は、父とも頼む早見晋我の死に際會し、近代詩の初めとも賞讚せらるる次の如き詩を作る。 君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に/何ぞはるかなる に始まる「北壽老仙をいたむ」と題せる十八行の詩なり。中段に雉登場す。 雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば 友ありき河をへだてゝ住にき さらに後半の詩句には雉の聲出づ。 友ありき河をへだてゝ住にきけふは ほろゝともなかぬ 萩原朔太郎は、「蕪村のポエジーは魂の故郷に対する郷愁なのだ」と稱讚せるが、この蕪村が詩には、芭蕉共々、千年をへだつる行基が魂の傳はりて滲み出でたるが感じらる。行基の嚴しき利他の行の奧底には、父母を故郷を慕ふ心、やさしき心の横たはりたること、この歌より知らる。 〔作者〕行基 天智七年(六六八)〜天平勝宝元年(七四九)。和泉の人。俗姓は高志氏、父は百済からの渡來人と伝ふ。十五歳にて出家、道昭に師事。民衆教化や社会事業に盡力、天平十七年大僧正に任ぜらる。『玉葉集』などに七首入集。 解説 谷田貝 常夫 やたかひ つねを (元普連土學園教頭、國語問題協議會事務局長) |