平成新選百人一首 (第七) わたつみの豐旗雲に入日さし 今夜の月夜あきらけくこそ 中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)=萬葉集 わたつみの とよはたぐもに いりひさし こよひのつくよ あきらけくこそ わたつみ、は海の神、轉じて海の謂なり。旗雲は、幟のなびく如く空を横斷せる雲なり。 眼前に廣がる大海原、大空を横切る旗雲に赤き夕陽さし、海も山も燃える如き茜に輝く。今夜の月は、さぞや清明ならむ、さあれかし――の意なり。 作者の天智天皇は、舒明天皇を父に、皇極、齊明天皇を母に、皇子皇女に弘文、持統、元明天皇等を持つ、七世紀の大帝王なり。即位前、藤原鎌足と協力して大化改新を成し遂ぐ。 大帝王に相應しく、この歌の雄大、雄勁、壯麗には息を呑むばかり。萬葉びと、神代びとの氣宇壯大、大自然に融け込み一體化する氣迫、そこにある情緒の振動に壓倒さるるのみ。中國文化、印度文化の影響未だ深からざる上古日本民族の心の躍動を思ふものなり。 遙かの後、芭蕉は『奧の細道』にて、荒海や佐渡によこたふ天の川、と詠めり。天智天皇と芭蕉を隔つる千年の間に、この歌の如き氣宇のものの殆ど出現を見ざりしは不思議のことなり。 この歌を口ずさむ度に感ずる、ぬきんでし歌格の高さと藝術作品としての美には、恐れ入るほかなし。 なほ天智天皇の歌で廣く知られしは『小倉百人一首』卷頭の 「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ」 なり。 〈作者〉中大兄皇子 六二六〜六七一。即位して第三十八代天智天皇。百濟の要請を受けた白村江(はくすきのえ)の戰で唐・新羅聯合軍に破れし後、防人の設置等、國防に力を注ぐ。 解説原文 藤原 正彦(評論家、お茶の水女子大學教授) |