文語日誌
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文語日誌(平成二十三年九月)
     
                  谷田貝 常夫

加速
平成二十三年九月




 今年のノーベル物理學賞を授けられし研究の主題は、超新星の觀測により、膨脹しつつあるわれらの宇宙が、その加速を早めゐる旨のものなり。ひところは、或るところまで膨脹せし後は、投げし林檎のやがて落つると同樣、今度は收縮を始むと信じられ、この宇宙も輪廻すとされしものなり。膨脹すといへども、永遠に續くことあり得ず、膨脹の果に宇宙の温度下り、凍結して終りを迎ふと言ふ。
 この加速のこと、人間世界におきても二十世紀に殊に顯著なり。世界人口の推計によれば、西暦紀元前後の全世界で數千萬人の人口なり。そが産業革命の十九世紀初に九億人、二十世紀に入り初頭に十五億人、半ばの一九五〇年には二十五億人、今二〇一一年には七十億人に達し、二一〇〇年には標準的なるシナリオにても百一億人と豫測さる。グラフに見る限り、日本ほか人口の減少する國あるも、アフリカ、印度、東南アジアなどが更にふゆと言ふ。
 かく加速増加する原因の大なるものに、早くて大量の輸送可能なる乘り物の發達あげらる。機關車の發明さるるまでの人類に、馬の速度以上の乘り物は無かりし。現在の竸走馬にても平均速度は時間六十粁といふ。日本にて鐵道が開業せしは明治五年(一八七二)のことにて、新橋より横濱までの間二十九粁を五十三分、時速は約三十粁なり。現在の東海道線なれば二十分ほどなれば、時速は九十粁なり。日本にての鐵道開業から三十年後に、ライト兄弟、人類初の有人動力飛行を行ふ。一分間に二七〇米飛べれば、時速は一六粁ほどの低速ながら、この飛行機なるもの、次々に速度を早めて昭和の十年代に入りたれば、隼戰鬪機の時速五六〇粁に至る。現在、航空機の速度はマッハ、すなはち音速が單位とされ、ジェット戰鬪機となれば、マッハ二は出すと言ふ。さらにロケットの開發進み、地球の重力圈から拔け出すに、時速四萬粁を越さねばと言ふ。近々百年の間の交通手段の加速の強烈なること、論外といふの外なし。
 同樣に驚異的なる加速實現せるものに電腦あること、言ふは更なり。腦の延長といはれし機能、加速を加へて今や次世代コンピュータは、名稱を「京(けい)」と決したれば、計算の單位は京、すなはち兆の一萬倍となる。これもいづれその萬倍萬倍などと加速し、古代印度人の命名に由來する恒河沙、阿僧祇、那由他(十の六十四乘)などとならむ、されど無限などといふ終着點あり得るものなるか。
 文字も増殖するものなり。中に漢字はその傾向顯著にして、辭書により語彙の増え方の目處たてらるるものなり。二千年前の『説文解字』の篆書による約一萬字が、三百年前の『康煕字典』にては楷書の四萬七千字に殖ゆ。周知のごとく漢字は手書きされきたれるものにて、書き手の書き癖多き上に書體も何種類もありて、その數は嚴密を期せば辭書の何倍にもならむ。現在の『今昔文字鏡』によらば、明朝體約十六萬字收録さる。皮肉にも簡易化なり標準化さるる度に、漢字は數をふやす。一方でコンピュータの漢字受入れ能力は、今は空白のスペイスなれど、數百萬の枠用意せられたり。
 コンピュータにより、漢字の分類、屬性などの正確にとらへられて精緻なる整理がなされたるは絶大なる功績なれど、一方、往昔には木に彫りたり、母型作りて鉛を流込みたりしての苦勞の末の活字に頼れるものなりしを、今やコンピュータにて誰にても容易に文字作ること可能なれば、誤字なりデザイン文字なりにて漢字はますます増殖すること疑ひなしの負の方向も現はる。ユニコードなる文字の世界標準あること、廣く知られたらむ。このコードに一旦登録せらるれば、世界中の人使へることかなり容易し。されど最近愕然とさせらるることあり。携帶電話より發生せるか、いはゆる「繪文字」のユニコードとして世界規格に登録されつつあることなり。天氣豫報の記號、月齡の形、アナログ時計、トランプ等までは兔も角、人間の男女、爺さん婆さん、ちょび鬚顎鬚、ヘルメット姿ターバン頭等のほか、ハート印の繪に至りては失戀も含め十數箇の繪文字載れり。なぜか天狗の面、徳利に猪口のお粗末なる繪あるに及びて、噴飯ものと笑殺せんより、忿怒の情發するに至る。甲骨文の象形文字こそ可愛けれ、斯くのごとくしだらなき繪文字の、なんらの基準なく採擇さるれば、漢字の増殖どころにてはなく、それこそ無限大に文字増えむ。
 いづれにせよ、何事も加速する一方なれば、人類文明は多大の混亂に陷らんこと明々白々たり。されば、ロケットにおいて人體の耐用のため、3G(加速度單位)を限度とするといふが如き配慮、理性的齒止めをかくること必要ならむ。  以上


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