文語日誌(平成二十三年六月)
谷田貝 常夫
逃ぐ
平成二十三年六月二十日
大震災に伴ふ福島原子力發電所の放射能洩れの状況につき、當初より報道にて安全を強調しつづけたるは、國民にパニックを起させざるやう配慮せるゆゑなりと、最近になりて公表せらる。今次大戰中の大本營による國民安堵を意圖せる虚僞報道との類似、すぐに想起せられたり。障碍發生當初より、ドイツは大使館を大阪に移動し、フランスはフランス人全員の日本退去を命令せり。メルトダウン(爐心熔融)の事實知りたればのことにて、ドイツの然るウエブサイトにては、福島原發の放射能洩れの豫測範圍を毎日圖示せること、余もネットにて何囘となく目撃せば、當初より日本政府、東電及びそれを傳ふるマスコミの報道を信ぜずに毎日を過ごせり。
三月十一日當日の種々の映像より判斷し、そが眞實を報道せらるゝもパニック起ることなかりしものをと數人の學者發表せり。災害異常時には眞實の報道無きが反りて人々を不安に陷るるものなりと言ふ。しかも近頃強調せらるゝ事實は、人は危機が迫れど意外にその場より逃ぐることをせざることなりと。韓國ソウルの地下鐵火災にても、煙が近づきつつあるにも拘らず、逃ぐる乘客の少くて死亡事故に繋がりたりとさる。北海道JR石勝線トンネル内の脱線炎上事故にても、車外へ逃出す時機今少し遲ければ、あるいは死者出たるやも知れずと言はる。
昭和二十年三月十日のこと思ひ出さる。當時強制疎開に遭ひて移轉せる家は淺草の鳥越神社に近きところにて、前月二十五日の晝よりの空襲にて、我が家の道路へだてたる前一帶燒きはらはれて灰燼となり、總武線のガード見渡せたり。九日の夜中より始りたるB29が空襲は、今までになく規模大なるものと豫感せられ、わが母、早く逃げんことを言ひだす。余は、家の前全體のすでに燒け落ちたればそれ以上に燒かるゝこともなからむと想像せしも、萬が一といふこともあらむと、かねて用意のリュックサックを背負ひ、藥鑵に水入れて手に下げ、母の妹が手を引きて上野公園を目指すに從ふ。後よりの計算なれど、およそ三キロメートルほどの距離か。
大正大震災時、自然發生せる大火に追はれし下町の人間、兩國の被服廠跡に逃ぐるか、はたまた上野の公園に向ふか、いづれかの選擇を迫られし折に、母の家族、上野を撰びて助かりたる經驗あり、はたまた偶然のごとくに父の徴用せられて上野のいづくにか警備をせるとの報せありたることによる判斷なり。被服廠跡も廣かれど、家財道具などおびただしく持込まれ、それへの引火などにより四萬名近くが死亡せりといふ。
御徒町に近かづける頃には邊り一面の火の海にて、上野公園の入口近くに至りしときは、省線のガード下の通路ある毎に、龍の舌なめづりするごとくに大きなる火炎焔吹出したり。雲の下面地上の火災を反映して空一面、赤く塗られたり。地獄繪の一齣なりき。上野の山にとりつき、東京音樂學校に入ることを得。兵隊の數も少くて警備薄けれど、この夜、上野に逃込める人數、さほど多くはなしと見え、上野の森の中に黒き影となりたる校舍周邊の風景閑散たるものと見えたり。夜も一段と更けたる頃、その靜かなる暗闇より、ピアノ彈く音聞えたり。物靜かなる曲なれど、この激せる戰爭場面のさ中に、かかることのあるべきか。山の下の、火焔に包まれたる町の姿とはあまりにも懸け離れたる靜謐なる世界に、子供心にさへその對比の甚しきにおどろかれぬ。翌朝なぜか黒き色の握り飯配られたるを背に負ひ我が家に歩き戻るに、一面の燒野原の一畫に殘れるは土臺のみにて昨日までの我が家の跡知る。母の早々の逃げんとの判斷、正しかりしこと痛感せられたり。
この度の大震災、歐州人はいち早く逃げたれど、意外に米人に我は日本より逃げぬと宣言せる者數名あり。デーブ・スペクターがその一人にて、「今逃げば卑怯者故歸國せず。米政府は日本にゐる同胞に歸國勸告せず、國務省は日本政府の指示と情報に基づき行動せよと、日本政府を信用せり」といひて、以後ツイッターにてギャグを連發、被災者及び日本人を元氣づけをり。
逃ぐるどころか、震災、原發事故を理由に、逆に日本に來、日本の國籍までとらむとするが、齡八十八歳のドナルド・キーン教授なること、今にては巷間に有名なり。日本から逃るる術無き日本人に、「日本の生活が好き、日本人に勇氣與へらるれば素晴しきこと」と語るキーンさんの言葉に、勇氣づけられたる日本人多し。
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