文語日誌
推奨環境:1024×768, IE5.5以上

 

文語日誌(平成二十三年二月)
     
                  谷田貝 常夫

シュプール
平成二十三年二月十五日




 朝雪降りつむ、春の淡雪なり。東京が白一面の世界になりたるは數年ぶりならむか。きのふ、五反田の東急ストアに、前の降雪時に買ひ求めしテトロン製の丈夫なる輕き雪掻きショベルと同じ品まとめて竝べられたるを目にし、また、久ヶ原驛前スーパーマーケットの貨物出入口一體に白く鹽の撒かれたるを見て、近頃の豫報當らざるに、なんと大げさなることかなと笑ひたるが、今朝の降雪を見て、さすがなる商ひ魂と舌をまきたり。さりながら、何はともあれ、近隣に迷惑のかからぬやう、一わたりの雪掻きをす。腰凝る。
 北陸、東北の今年の降雪量は三十五年ぶりとかの尋常ならざるものなり。魚津に歸らむとせし或る人、新潟縣經由はとても無理と判斷、東京より新幹線を利用して米原經由の北陸線を經路にとりたるも、思ひ計らず敦賀に至りて大雪に立ち往生す。雪掻き車も雪の多きに故障せりとか。後一時間もすれば、後二時間もすればの期待に、乘客は皆車内にて待機すれど、その人、昔の記憶からこれはただならぬものと判斷、あちこち電話をして遠きところながら宿をとる。タクシーでは無理なるところなれば翌日は兔も角驛前のホテルを見つけて宿をとる。雪止まず、列車はいつかな動かず、驛員すらも先の見通し立たざれば、そのままホテル滯留となる。何より寢臺があり、手洗があり、暖房がきく。竟に二泊となりたる由。列車に殘りたる人の苦勞は竝大抵ならず、驛や周邊の賣店の食品すべて賣切れ、驛よりは握り飯一箇づつの配給とか。狹き座席にての丸二日に、病に罹れる人多かりしとか。
 北陸線のみならず、幹線道路などにても長時間もの立ち往生に、雪に閉ぢこめられし人かなり數にのぼりたることの報道を知るに及びて、余に記憶戻る。中學から高校にかけての學校にては、在校生の親が旅館を營みたることを幸便と、毎年のごとくに教師が希望の生徒を率ゐて信州野澤にスキーに赴けり。往きは國鐵の長野驛より私鐵に乘り換へ、途中よりバスにて野澤の温泉街につく。いつの冬ならむ、いざ歸へらんとするに、前夜、一茶の句に見らるゝ雪五尺が一晩に降りて、バス動きとれず。何時間待てども雪は降りつゞきたれば、國鐵ならばあるいは動くこともあらむと、そこはスキー教室、全員スキーを履きて山を下り千曲川べりの上境驛に至る。雪に閉ぢこめられし名ばかりの驛にて、列車の動く氣配なし。その日は、さなくとも家數少く、寂しき驛前の、とある一軒にて夜をあかすこととなれり。かなり廣き部屋の中央にしつらへられたる炬燵に皆の放射状に足をつき入れて寐たること、今に忘られず。翌日無事飯山線經由、東京へ歸るを得たり。この邊り、日本にても類を見ぬほどの豪雪地にて、沿線の森宮野原驛には、「日本最高積雪地點 積雪七・八五M 昭和二十年」なる、誇るべきか、悲しむべきかの記録書き記したる標柱の建てられたること、後に知りぬ。
 今朝の新雪に何ものかの足跡あり、三寸ほどの棒状のもの、點々と續く。おそらくは猫のものならむ。やや似たる形の、兔のものと覺しき足跡見しは昭和十八年の冬のことなり。前年東京への白晝の空襲もありたれば、子供心に戰爭の進捗も日本不利に傾けること感じられたる頃ほひなり。何かの縁りありて下町の我が家にて働きたる若者の、正月の歸省に余も誘はれたり。上越線の小千谷にて乘り換へ、終點の十日町にて雪の上におり立つ。小枝の輪に木切れを組合せたる洫(かんじき)を渡されたれば、靴の下に取付くも、始めてのことなれば足の動き自由にならず、左右互ひの輪を踏みて倒れかからむとすることしばしばなり。小學生の、それも洫を履きての雪上歩行なれば、その日は進みの豫定よりはるかに遲れたるか、若者の故郷に着かぬ途中の家にて一泊することとなりたり。圍爐に暖をとる。始めてのことなり。翌朝若者の實家に着くに、家の周りに筵を廻して雪圍ひとせば、周り一面の、二階に達せむとするほどの、うづ高き雪を壁として、入口にはかなりの餘裕あるに、子供ながらに心休まるを覺えたり。晝間は、革紐で足を縛る程度のスキー板なれど、これも始めてのことなれば、いささかなる坂を見つけては滑りたりして遊びき。
 東京に歸る日の早朝は、それまでになき快晴なり。洫を履き、一歩一歩を進めて山の尾根に辿り着く。雲の一片もなき青空の下、人間はわれわれ二人のみ、上越のさして高からぬ山々は新雪に柔かくおほはれ、そこにあかき朝日の射して得も言はれぬ清淨なる世界を作れり。純白の輝く雪面に點々と續くが兔の足跡なるか。そしてさらに一本のシュプールを見つく。こなたから、かなり遠くまでひろげられたる白妙に、鋭き刃物で引きたるその一本の筋から直ちに想像せられたるは、出陣の通知を受けたる大學生の、この世の名殘りにスキー・ツアーをなせる姿なり。練達のスキーヤーによる、亂れることなきその美しきシュプールは、かなたの疎林に消えてゆきたり。


▼「日々廊」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る