文語日誌
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文語日誌(平成二十二年一月十五日)
     
                  谷田貝 常夫

萬物の霊長なるか
平成二十二年一月十五日



 
家庭医にて胃カメラを呑む。常なれば眠剤にて居睡れるうちに検査終はるものなれど、けふは豫期せぬことに醫師、共に畫像を見るかと訊く。三十數年前、さる病院にて内科醫の共に己が胃の先、十二指腸を見させられ、この幾つもの潰瘍のふくれあがりたるを畫面に目撃したれば、外科手術よりなからむこと納得せらるべしとのご託宣に従はざるをえず、胃の三分の二、切り取らる。その時以来久しぶりの、己が體内觀察なり。カメラの、胃の下部に至れるを眺むるに、その先より黄色き液体ののぼりくるに気づく。医師の言ふに、幽門切取りたれば、胆汁の残りの胃への逆流ふせぐことあたはず。そが胃炎起こすことあらむと。己自身の躰のメカニズムなれど、氣味あしき思ひなり。小さきポリープ状のものあれど問題にならずとカメラ引上げ、食道を歸路に見るも、氣管の入り口などは素通りなり。ここにある辨、食物の入りたる時に開きて胃へと誘導するもの、肺と胃との分流を促すものにて、人間にとりてまことに大切なる器官なること、これに過ぎるものあらじ。幽門の比にあらず。畏友中村保男君の、前立腺にて入院中のさる日、早朝奥方より電話あり。何事ならむといぶかるに、夫の誤飲により命危なし、貴家は病院に遠からざれば、至急見舞ひに行かれんことを、われは後になるもと言ふ。急遽そが病院に赴くに、看護婦達の懸命なる吸引努力にて一命をとりとめたるところなり。粥を食するに、誤飲にて気管に入りたりと言ふ。米粒の粥として細かくなりたるもの、複雑に気管に入りこみたるが故なれば、かかる病院のごとき装置と人手なかりせば、命なかからむものを。
 一つの管の途中にて固体と気体を分流させるがごとき辨の生体設計、とても巧みなるものとは思へず。欧米におきては絶対者を立つ。絶対者なるものならば、被造物に完全に精巧なるメカニズム造るべきにあらずや。誤飲、卷爪、逆さ睫等々あるべからざることなり。されば「遺體科學」なる學問分野を提唱する遠藤秀紀獸醫學博士は次のやうに言ふ。
 海から陸にあがつた生物達は「新たに背負うことになった肺なる厄介者をどう処理するか。その問いへの答えが、美的デザインとしては意味をなさないほどの、左右バラバラになった身体を作り上げることだったといえるだろう。ヒトや哺乳類の遺体で内臓の配置を見ると、行き当たりばったりの設計変更も、相当追い詰められている気さえする。よくぞこれで生きていられるな、というのが、冗談半分ではあるが、遺体を見る私の率直な感想である。」
「ホモ・サピエンスの短い歴史に残されたのは、何度も何度も消しゴムと修正液で描き換えられた、ぼろぼろになった設計図の山だ。その描き換えられた設計図の未来にはどういう運命が待っているだろうか。」
 永き進化の末に人間は動物の最高位につきたりと思ひこみ、あつかましくも己を「萬物の霊長」などと呼ばはる。されど遠藤博士によれば、ここまでの長き進化の中に、幾度と無きその場しのぎの設計變更なされたる結果の人類ならずや。しかるを昨今、ES細胞なるもの開發せられて、あらゆる組織に分化しうることより再生醫療の可能になると報ぜらるるが、これの更に進みて樣々の臟器の、樣々なる部位などに移植することとならむ。つまりは絶對者に代りて、人間が生體の設計することとならう。神すら間違ひ多きものをと、うたた感慨無きにあらず。


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