文語日誌
推奨環境:1024×768, IE5.5以上

 

文語日誌(平成二十二年一月十五日)
     
                  谷田貝 常夫

シンクロナイズ
平成二十二年一月十五日



 
東京驛の通路は嘗てなきほど人々にて混みあひをれど、それなりに秩序ある流れとなりたる中に、波の合間に岩の屹立せるごと二人の男の立ち止まりて相向ひ激しく言合ふが際立てり。この混み合ひたる中にて互ひに衝き當りたるが故の口論ならむか。戰前に男同士の撲り合ひの喧嘩は日常茶飯のことと覺ゆるが、近頃にてはそこまで行かず、口爭ひばかりになりたるにしても、まだ日の高き時間の混雜の中にてはめづらかなることなり。
 思ひ返すに、立錐の餘地なきほどのすし詰め、鰯詰めの流れの中にて人々のほとんど觸れ合ふこともなく泳動しゆくは、この世の不可思議とも言ひえむ。自然の叡智のひとつなるか。何千匹の魚の群、何萬羽の鳥の個體集りて大きなる塊をなして動き、又一段と大きくなりたる形を作る。集合體が一つの形をとれる生き物の如くに見ゆ。その塊、時に動きの方向を急旋囘することあり。つれて個々の生物、その流れに應じたる急激なる方向轉換を行ふことにより、全體の形も姿を替ふ。かかる動きの中にて、群からはづるる個體はままあれど、まことに不思議なることながら、ぶつかり合ひたる、衝突せる個體を見掛けたることなし。如何なる情報によるものならむ。七匹先を見をる故なりとまことしやかに言へる者あれど、自動車運轉にて二台先を注視するが精一杯なることからも信ずるに足らず。同期現象、いはゆるシンクロナイゼイションによるものならむ。


 嘗て〃proximity〃なる學問の一分野のあるを知り、社會學なるものの貪慾なる範圍の擴大に驚きたることあり。日本にその分野の學者のあるかは知らざれども、「接近學」と名付けられて人と人との距離による心理の差異につきて研究をなす。知らぬ他人がある距離の範圍内、たとはば二メイトル以内に接近せば、相手により樣々なる心理状態を呈す。相手の人間像を瞬時に値踏みし、己の對應を判斷す。やくざならば、いかなる相手なりと繩張りの侵害とばかりに「眼(がん)を付ける氣か」とか言ひて聲にて追ひ拂はむ。されど歐米の學問なれば、更なる近距離につきての他人との關係は思ひも寄らざることならむ。日本には高名なるラッシュアワー存す。かかる驛の混雜、殊に滿員電車の混雜は他國に類稀なる現象なれば、學問の對象にはならざるが殘念なり。海外に癡漢なる存在のなきは、日本のごとき超過密現象のなきによるものならむ。


 十一日伊勢神宮に參拜す。元日の天氣荒れたれば、その分、この連休を利用しての參拜客常に倍すと地元の人云ふ。外宮より内宮に向ふバスを何列もの蛇となりたる人又人の待つを見て、路線違ひのため列も出來ぬにバスに乘りて神宮美術館、農業館に立寄る。見をはりて廣場に出づるに、ここまでの客を降せるタクシーに出合ひ、幸ひのこととそれにて内宮に向ふ。内宮に近づくにつれ今度は車、車の澁滯に遭ふも、地元のタクシー、バスのみの特別レインありて、何十台もの車を追越して無事内宮の大鳥井前に着く。
前年十月に、二十年に一度の付替へなされし眞新しき宇治橋を渡り、五十鈴川にて手を淨め、玉砂利の參道を進む。神樂殿には人が蝟集して、竝べられたるお札やお守りも人の肩越しに目をやるが精々なるも、正月なればこその人込みなりと先に進むに、亭々と聳ゆる老杉の合間のかなり幅廣き參道が竟には人、人にて埋り、壁に突き當りたるごとくになりて足を止めざるを得ぬ事態となる。横一列の人の數は六七十人にもなり、停滯の人波は千人以上にも達せむか。前方を見るに左に曲りて昇る石段も人々に埋め盡くされたるが見え、その動きもまことに遲々たるものなり。人の後から後からと寄せ來るに、前へは一二分に一歩といへるほどの澱みたる流れとはなれり。されど子供の泣きじやくる聲、バスの豫約が後何分と不安げなる會話など、多少の人聲は聞こゆるも後は默したる者のみにて、されど人と人がぶつかることもなく、顏々に穩やかささへ浮かべをれば、自分の周りが一種の共同體のごとくなりて暖ささへ感じられたり。近年、伊勢神宮への參拜者の増加せるは、いはゆるパワースポットとしての評判の故といはるるが、今囘の余の體驗よりせば、人々の同調、同期化、シンクロナイゼイションの效用のパワーとなりたるものにてはなきかと信ぜらる。かかる遲々たる歩みにて、常なれば一分とかゝらぬ拜殿直前の參道に四十五分をかけたるも、かへりて、シンクロナイジング・パワー受取る、滿ち足りたる參詣となれり。


▼「日々廊」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る