文語日誌
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文語日誌
     
                  谷田貝 常夫

F女聞き書



 
F女の母なる人、富山の富裕なる家の出なれど、出生時にその母を失ひ、繼母に育てられしが、その嚴しからむよりはと、小さきより京都の西陣に奉公に出さる。糸の紡ぎが主なる作業か。後結婚し子供九人を設く。貧乏のどん底の生活なれど夫の大らかなるか、傍目の譏りを氣にもかけで夫婦仲良かりし。目に一丁字のなければ、子供の學校よりの報せなどは夫に讀んでもらひ、子供の進學相談にも行きたることなし。その母なる人、極貧の身なれどお金欲しと言ひたることなし、されど話するうちに誰もが金を出さゞるを得ずなるが常なり。世にテレビ出できて、そのゆゑか漢字を自づと覺えたり。某日F女、母を車に乘せ高速道路を走るに、これから大阪に向ふのだねとの發言に仰天す。漢字の一つも讀めなかりし母が、標識を見てかく聲に出だせるとは、一生殘れる印象なりと言ふ。その母、七十歳になりし折、思立ちて英語を習ひ始む。判りがたければ二度同じ授業を受く。やがて祇園なり戎講なりの露天に現はれては、ひやかし外人客を相手に通譯を勤め、皆に便利がらる。何年か後、F女、妹とその樣を見屆けむと露天にて母に逢ふ。外人と話終りたれば、母の英語の役にたちたるかと問ふに、今はフランス語にて話しをれりとの答へに、二人愕然とす。外人に好かるゝたちか、旅費手間賃向ふ持ちにてよく海外にも出向き、銀器の磨きなど、器用さを活かして喜ばれたり。かかる外國人相手の生活、その九十一歳の死去の前年まで續けりといふ。
 
 F女、結婚後妊娠八ヶ月にて離婚、夫のよそに二人の子供作れるのわかりたるが原因なり。家なく金もなく途方にくれをるところ、或る按摩師、家に引き取りくれて子供も産めたり。住はせくれたる上は按摩の仕事の手傳ひとなり、技術を覺ゆ。その後子供も大きくなりゆくにつれ、獨立せねばと疊二帖板敷き一帖ばかりの家を借る。そこにて、子供を養ひながらの昔習ひ覺えし西陣の織り仕事を始め、糊口をしのぐ。そこへ前夫の姑現はれ、前夫の浮氣相手の子供二人を二三日なりと預りくれと頼む。己の兒ある上に、家のかく狹まければ如何なる生活をすべきと惱めど、嘗ての姑のリュウマチに惱まされをるを目にせば、預るが長くなるを覺悟にて引き取る。以後、織りの仕事のみにては暮しの成り立たず、習ひ覺えし按摩を夜の仕事とせり。かくするうちに、當時の景氣もよければ、西陣の織りや染めの仕事の手も擴がりて二十名程の女性に工賃拂ふほどになれりと言ふ。されど西陣が仕事は、手形を貰ひながら糸の購入、手間賃の支拂その他の遣り繰りに、金にいつかな餘裕出來ず。それゆゑ日錢入る按摩の仕事止められず。かく寐る間とてなき暮しの内に養ひこし先夫の長男、北海道大學の醫學部に入り以後ドイツに留學、詰る所スイスの女性と結婚、妻の父の病院は望まれても跡をつがざれど、スイスの國の醫學研究所にて働きをるとのこと、日本へはほとんど歸らず。これも前夫の娘は五黄の寅の遣り手にて藥學を專攻し、商賣上手なれば漢方藥など藥を扱ふ商賣に成功、大阪にて四階建てのビルを建てて三人の子供を立派に養ひ成長さす。實の兒、結婚相手は工務店の主なれば、今の不況に配下の弟子達共々苦勞重ぬるも、本人喫茶店を經營、暮しには困らで世をすごせり。
 
 本人のF女、按法につぼはずさず、力も強ければ、髮を黒く染めたることもありて客よりは六十か、將た又五十かと言はるゝこと多けれど、實年齡は大正十二年の生れの由、米壽ならずや。昨年の免許更改に警官より無理無理、もう車は止めたら、と言はれたるが、自動二輪の大なるオートバイ見事に乘りこなして合格せり。夜遲くなること多き仕事なればと、この歳に至るまで125CCのバイクを常用すとか、まさに猛媼と言ひ得べし。按法の名手と聞かば日本人は勿論、來日の台灣人なり泰人、中國人なりに、遠き近きを問はず尋ねて教へを乞ひ、己の技に活かせり。かくて按法の名聲高し。辿り着きたる方式は、日本の傳統的なる肩より揉みはじむるとは異りて、足先より揉む。その故か己の肩凝るを知らず。仲間の按摩師のほとんど、三日に擧げず同業者に肩を揉みてもらひをると笑ふ。


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