文語日誌
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文語日誌(平成二十一年九月二十日)
     
                  谷田貝 常夫

もどき
平成二十一年九月二十日



 
『日本語は論理的である』てふ題の本を讀みたる折、「小學校英語教育は、何の特色もない二流の英米人もどきと二流の英米文化もどきを作り出すのではなかろうか」なる文章に出會ひて苦笑せらる。「もどき」なる接尾語、梅もどき、橘擬、立羽擬など植物や動物などにつけらるることの大半と思ひをりしに、かかる抽象的なる「文化」などに付き得とは。日本語の中にても便利なる單語ならむ。されば「民主主義もどきの衆愚社會」とか「改革もどきの舊態依然」なる表現も可能ならむ。
 予の親しめるは「雁擬き」にて、京風の淡き味のものを好むも、語原の一説にては雁の肉に似たればかく名付けられたりといふ。擬きなる語のつく食品の代表ならむが、これより聯想せらたるは禪宗寺院などにて出さるることある精進料理なり。五十年は經ちたる昔、洛北天龍寺の塔頭とおぼしき精進料理の店にて食せる料理思ひ出でたり。品書きの中に鰻なる名あれば大いに興味そゝられ早速に注文す。常なれば豫約の要るところなれど、その折は偶々に提供可能になりたるものと云ふ。持ち來るはお重にて、中に收まるは紛ふ方なからむ鰻の蒲燒なり。急ぎ箸を使ふに味も鰻に變らず。如何なる精進料理なるかと訝らるゝも、仔細に目を凝らすに、皮と見えたるは海苔にして、他の肉に當る部分の色も形もいかにも蒲燒によく僞せたるものなり。食するに、鰻ならずといへど何の不滿も感ぜられず。味の堪能せらるると共に、坊さん達の、在俗の頃に憧れし味覺を、懸命にもどき作りて味はひ返さんとするそのいぢましきまでの心根に、哀れなるひたむきさをさへ感じたるものなり。屢見聞する永平寺が一汁一菜の食事とははるかに隔り、悟りには遠からむも。
 その後台灣料理に、齒ごたへありて白く美味なるがあるに、名を尋ぬれば「鮑影」と呼ぶ「きのこ」なりと答ふ。「もどき」の一種なれどよき命名ならずや。その後エリンギなる名にて廣く店頭に見らるゝこととはなれど、「あはびかげ」とは味異なるが如くにさへ覺ゆ。
 ただの一日にても食を斷つ氣にはさらさらなれぬ身なれば、佛家の食事には兼がねより關心深かりき。一昨年、大陸にては千年は空白となりたる護摩修法參加のため、池口惠觀師に從ひて西安の大興禪寺を訪る機會に惠まれ、その際、禪寺の晝會食が席に加はるを得たり。いはゆる食堂じきだうに丸い卓の幾つかがしつらへられ、それぞれに十名ほどが着席す。やがて溢れんばかりの料理を盛りたる大なる鉢、皿の運ばれ、その數は十五は越えたるらむ。箸の進むにしたがひて、中のいくつかは「もどき」料理なるに氣づきたり。鳥など肉に似せたるもののあるほかに、海からかくも遠き此の地にて、いかにも烏賊や海鼠なまこを思はするもどき料理のあるには一驚せり。空海や圓仁も頼りたることある斯かる大寺の今の食事事情、斯くの如し。
 翻へりみるに、現代にても高級食材はもどき作りの標的となる。蟹のもどきごときは、その白き色に赤き筋の走り、觸感、味等、まことに實物に似たれば、高き評價を受けて世界的に普及せる由なり。イクラもどきも、色、形の眞にまごへたれば、鮨屋にてその眞贋に頸を傾げる姿見らる。
 表に制限加へらるれば、裏にてその補ひを工夫するが人間の習ひならむ。「もどき」の生まるる所以なり。されど、その擬きの一大工夫が一つの文化を生み出すこと、例し多し。日本文化も他文化の學習を重ねに重ねたるものにて、かくて一流の「もどき文化」作り上げられたるものに非ずや。


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