文語日誌
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文語日誌(平成二十一年七月二十五日)
     
                  谷田貝 常夫

圓仁の入唐求法巡禮行記
平成二十一年七月二十五日



 
何氣なくテレビを見やるに、大陸の映畫らしき番組、皇帝と老僧の何事かを論じをる擧げ句の果ては、若き僧達の亂入も押さへられ、高僧の捕へられて籠車に載せられたる場面にて目をそらす。圓仁が「入唐求法巡禮行記」が想ひ出でられたればなり。
 圓仁、承和五年(八三八)に渡唐、苦難の旅を續けて五臺山の聖蹟を巡拜、二年の後長安に入るも、翌年正月、年號の會昌と更めらるゝと共に武宗による廢佛毀釋の動き始る。帝の道教への傾倒によるものにて、僧尼の所有する財物審査され、帝の定むる規定により取締り、全國的に行はる。唐朝の恐ろしきは、中央の指令があの古き時代に、遠距離の全國に徹底せることにて、十月には僧尼の外出禁止令出され、還俗推獎せらるること、全國的なり。
 佛教のみならずゾロアスター教、景教など外來の宗教も彈壓せらる。異民族との宥和をはからんがため、異民族に降嫁させられたる王女を和蕃公主と稱し、吐蕃(チベット)に例あり。王女ならずとも宮女の王昭君が異域に嫁せる物語はよく人の知るところなり。廻鶻國(ウイグル)にも嫁せる和蕃公主あり。今を遡る一千二百年の當時、廻鶻に内紛起りたるを好機と、公主長安に逃げ返るに、お附きの廻鶻人の長安城に入るを許されざるを知り、隨行せる廻鶻王子を公主路上にて殺せりと云ふ。更にその餘波、波斯(ペルシャ)の宗教摩尼教に及び、天下の摩尼教布教者、敕により殺されたり、廻鶻人の摩尼師を崇重すればなりと圓仁の手記にあり。
 會昌も四年とならば、佛寺を毀ち僧尼を還俗さする敕令公布され、記録によれば寺院四六〇〇が破壞され、二十六萬人に及ぶ僧尼、還俗させられたりと言ふ。會昌五年、圓仁自身も還俗して歸國せよとの命により、俗衣を着て長安を離る。圓仁の再び髮を剃りしはその二年後、山東省の赤山にてのこと、武宗道士の勸むる丹藥の飮過ぎゆゑか、水銀中毒にて三十三歳の命殞して佛教復活すればなり。
 巡禮行記より垣間見らるゝ圓仁が大陸での苦難、更には體驗せる事實の記憶の確なる事、寔に驚嘆に値す。されど本書を瞥見するに空海の文字の一つも無きことに氣づく。空海の渡唐せるは圓仁よりたかだか三十數年前のことにて、長安にて空海のよく赴きし大興禪寺その他の寺を訪れ、あるいは空海の住せし青龍寺をも訪ひたるに、空海が名の出なからざらむはずなし。傳へ聞くに現在にても空海の書家としての名、長安の人の中に知る者ある由。如何なる高名の佛者なりとも、師最澄に絶縁の書状送りし空海に蟠りの殘りたるか。ライシャワーの絶讚せる世界的名著なれど、この點のみ畫龍點睛を闕くの思ひを感ぜざるを得ず。
 一昨年、池口惠觀師につきて始めて大陸に渡り、西安なる大興禪寺に赴く。庭に小塔のごとき一宇あり、華やかに赤く塗りたる六角堂にて屋根を中國風に反らせり。近づくにつれ入口上の額の暗きに「慈覺大師記念堂」なる字讀み得たり。これぞ圓仁をまつるものにて、大方比叡山台密の建てしものならむ。目をその直ぐ右横に移すに、薄金色の、多少なり蒋介石にも似たる立像あるに氣づく。側に寄るにこれぞ弘法大師像なり。屋根もなき露天に立てるを見て、お氣の毒と思ふと共に、錫を飛ばしてこの地にも活躍せんお姿を、さすが空海和上と讚嘆せらる。ともあれ、先月、比叡山よりの高僧、高野山を訪れて互に歡談せるによりて千年餘の蟠り捨てらる。圓仁も安堵せるにあらずや、近來稀なる快擧と言ふべし。


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