平成十九年十一月十四日
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平成十九年十一月十四日(水)
     
                  谷田貝常夫
千々にものこそ


 テレビにて、月面より地球の昇る樣を見る。月を周る衛星からのみ撮影さるゝ畫像とは知れど、心に大なる衝撃なきにあらず。かつてのアポロ計画における月面着陸時におきては、沙漠がごとき月面に降立つことすでに情報多く十分豫測せられをれば、人類初といふ大事業には興奮氣味とはなりたれど、そのことの内に顧みるべき何ものもなし。今囘は、地球と對比せられて見ゆればなるらむ、心に響くものあり。

 抑も、人は高きを望むものなり。女性は何センチかの高さを求めての木履、ハイヒールを履き、男は木に攀ぢ登り、同じ街角にてもビルディングは高さを竸ひて、後より後より高さを増すためし多し。山はそこに在るゆゑに人の登るといはむより、人は高きを極はめたきゆゑ登るならむ。

 余も上より下を見ること興味津々たり。航空機に乘れば極力窓際の席を所望し、窓硝子に頭をつけ下を眺めて喜ぶを常とせり。海岸線をよぎるをりは、白波に陸地の圍まれたる樣より蕪村が句、稲づまや浪もてゆへる秋つしまを憶ひ出でて、かの句の氣宇壯大なるに感ずるを常とす。さはあれど、眼下に住む人達の生活に關する現實感皆無に近し。

 空よりの瞥見につきて、柳田國男が飛行機に乘りたることあるを思ひ出せり。聞き書きの「遠野物語」を出して後、柳田が遠野に旅し實地見聞をなせるは當然の成り行きなれど、さらにその二十年後に今度は飛行機に乘りて、遠野物語の全舞臺を空より眺め懷舊の情にふけりたりといふ。入れば歸りたる者まことに少なき千晩が嶽、炭燒く者あるのみの山中の無人の境、白鹿や狼の氣配を感じたる山中、あの話、この聞き傳へなどの胸中を過りしならむ。赤の他人の機乘による平板なる高みの見物とは全く異ると言ふべし。東京タワーよりの、あそこは何處、かしこの建物は何などと眺むることと、紐育がエンパイラステイトビル頂上より見る景色との違ひに近からむ。

 吾人は地球儀を見なれたれば、國名の表示はなくとも宇宙船よりの地上畫像は、同じく見下ろしたる姿にてさほどの違和感なし。およそ地上三百キロの高さなり。月となれば地球との距離四千キロなり。人にとりて現在至れる最高の高さならずや、もはや見下ろすの感なし。

 その月の地平線より上る「地球の出」を見る。青きものの眞綿につつまれたるごとくにて柔かに見ゆるが印象的なり。地球より見たる月の固く澄みたるとは眞反對なり。あの小さき、神祕的存在にさへ見ゆる、觸れなば碎けもせむとも見ゆる球體に、人間のみにても六十億になんなんとせる口數を擁し、そが絶えずいがみ合ふ。「地を見れば千々にものこそ哀しけれ」、そこはかとなき、されど心の奧底よりの物悲しさを感じさせられたる映像なり。




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