文語日誌(平成十九年六月)
谷田貝 常夫
シュリーマンが旅行記を讀む
平成十九年六月九日(土)
知り人の寄ることありとは思はるるとも、かつて出席することなかりし政治家の集りにわが細君、われに同道したるところ、中學の同級生二人と顏を合す。その一人、小生には初顏の、石井鐵工所の社長なる石井宏治さんとの雜談中、シュリーマンに東洋旅行記のありて、その日本語譯本が氏の母上によるものなるを知る。『古代への情熱』などを讀みて若きより憧れをりし子息が、旅の途次のパリ國立圖書館にてこの旅行記を見つけ、複寫して持ち歸り、母親に譯を依頼せしものなる由。ハインリッヒ・シュリーマンは獨逸生れなれば、獨逸語にて書かれたるものとのみ思ひ込みをりしに、意外や原文は佛蘭西語なることわかりて、佛蘭西語の素養ある母上に、子よりの望みとして日本語への變換を願ひしもの、そが私家版評判となりて遂に出版に至りしものと言ふ。
牧師の子に生れしシュリーマンは語學力に惠まれ、六週間あらば或る國の言葉を覺えたりといはれ、その言語の才能を商ひに活かし、若くして巨萬の富を築きたるも、そが本意は、トロイアの遺跡發掘にありとさる。今はその眞意なるもの疑はるゝも、考古學なる學問の始れるか否かの十九世紀に、傳説に過ぎざりしトロイアの遺跡を己が資産のみにて發見するに至れるは、やはり偉業と言ふべし。
シュリーマンが商業活動を打切り、世界一周の旅をなせるは、トロイア遺跡發掘の六年前のことにて、印度から香港、上海を經て横濱に上陸せり。時は西紀一八六五年、日本にては幕末の混亂の最中、元治二年のことなり。六年前に神奈川、長崎、函館は既に開港されたりとはいへど、尊皇攘夷の動き激しく、外國人の江戸入りなどかなり嚴しく制限せられたる頃なり。斯かる時代にシュリーマンが來日せることを始めて知り驚嘆するとともに、石井氏同樣、若きより憧れたるシュリーマンに一段の親近感を抱けり。
滯日は近々二十五日ほどなれども、その間の行動力、觀察力の熾んなるに一驚、冒險心、好奇心の旺盛なるに讚嘆す。横濱の人口未だ四千人なるときに、徳川將軍上洛の行列を見物に東海道筋に出向き、或いは絹織物の見學に原町田經由八王子に赴く。そして遂には、特別許可を得て、殆どの外國人が生命の危險を感じて退去したる江戸へ入る。幕府の役人數名の警護付なり。宿舍はアメリカ公使館のある麻布善福寺。五日ほどの間に、そこより愛宕山、江戸城、日本橋、淺草、團子坂、王子、深川へと足を延し、多くの店に立寄り、芝居小屋では警護の役人五人の反對を押切りて芝居見物までなせり。唐人唐人と多くの日本人の好奇心の對象となりながらのことなり。
今の我々に信じられもせぬ觀察の一つに風呂屋あり。道路に面したる側の開放せられて、老若男女が禁斷の林檎を齧る前の先祖と同じ姿にて一緒に湯につかり、丁寧に身體を洗ひては着物を身に着けて出ること、あたかも名詞に男性形、女性形、中性形の別なき日本語の日常生活に實踐せられたるが如きなりとあり。しかも前を通りかかりしシュリーマンの、身につけし裝飾品を間近に見んと裸のまま飛出したる姿を、「清らかなる素朴さ」と感歎せりとも書かれたり。しかり、日本人が純朴、清らかさを美徳とみなし來たりしことを、かかる滑稽の中に見出したり。初めて日本に來たりて、それまでの東洋とは桁違ひに清潔好きなるを賞讚せるはペリーの手記にもあり。一方、他國にては卑しき身分とさるる女性と同じき花魁の肖像畫の、有名なる寺の本堂に飾られ、崇められたる有樣に途方もなきことと呆然ともしをりぬ。
世界の各地を廻り、その状況を知れる故に、他の地域と異ることあらば書き漏らすまじとの姿勢を持すれど、明白なる獨斷、誤りもあり。日本の猫は尻尾が三センチほどしかなく、また日本の犬はおとなしくて吠えもせずに道に寢そべりたれば、犬を踏み殺さぬやういつもよけて通らねばならぬとあり。短期間の個人による觀察をその國全體のものに敷衍することの危險、かかるところにも見受けらる。
さりながら、この紀行文に見らるるごとく、己が危險をも顧みることなく好奇心を滿たさんとするシュリーマンが生き方は、巨人のものなるを知る。
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