平成十九年五月十六日
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平成十九年五月十六日
     
                  谷田貝常夫
田植ゑ


 今朝の新聞に、天皇陛下自らお田植ゑのこと、寫眞入りにて載る。糯米「マンゲツモチ」および粳米「ニホンマサリ」計百株を宮中の水田に植ゑられ、收穫さるる米は、秋の新嘗祭に供へらるるといふ。まことに頼もしき行事なり。餘談にわたるも、されば、神嘗祭にはいづこの米の皇祖に供せらるるものか。

 今年は我が家にても、稻作りを始む。三月の或る日の新聞に「バケツ稻づくり」なる企畫の廣報あるを見て、選に入らば試さんとて應募の葉書を出したるところ、種籾、肥料、説明書の入りたる袋四組送り來たれり。さて、その時に當りて困惑す。餘分のバケツも、説明書にあるがごとき土さへも用意のなければ、稻作りにいささか逡巡の心兆せり。されど、意を決し大型園藝店に赴きて一通りの調へをなせり。五キロの收穫なければ元はとれずとわが妻の呟くも宜べなる出費なり。繪の具皿四枚に種籾蒔きてよりは、水の乾き切らんことを怖れ、雀の鳴き聲にも肝を冷したること五日に及びて、白き芽の生じたるに心躍れり。バケツならぬ屑籠ポットに土を盛りたるに植ゑ直して二十日、一つのポットからは何故か苗の一本も出でざるは不本意なれど、他の三つのポットには苗の延び出て、九センチほどにも育てり。さてこれよりは秋までの手入れ、拔かりなく行へるかまことにおぼつかなけれど、心には稻穗の垂るる樣、鮮やかに描かれぬ。

 嘗てわれも田植ゑせしことあり、終戰も間近の五月なり。東京の下町を三月十日の大空襲に燒け出され、縁ありて小田原の在、道了山近くの、清流に水車を廻せる豪農の一隅を借り、家族四人にて住むこととなれり。學校は縣立小田原中學校に通ふこととなりたれども、戰爭も末期のことなれば、勉學よりは勞働の提供中心となり、山での材木の運搬、軍需工場での輕作業などに授業時間が充てられたり。田植ゑもその一環にて、若き男性の多くが戰爭に赴きて農家に勞働力少なければ、中學生の力まで藉りる仕儀に立ち至りたる國の状況なり。苗植うべきは、二宮尊徳が生家にほど近く、箱根の明星、明神、金時の山々の眺めらるる所にて、清らかなる水の豐かに流るる田なれば、激しき勞働を強ひらるるといはむより、樂しき作業を授けられしものとこそ感じられたれ。まことに簡單なる説明の後、すぐさま田植ゑ始む。づぶの農業初心者の手差しする苗の果たして無事に成長するものやらと覺束なくは思へど、廣き田なれば手を緩めることもならざりき。腰の辛く感じられはじめたる頃、晝餉となれり。その時に出されし、盆に山盛りにされたる眞白なる握り飯の印象は、六十年以上經ちたる今に至るも忘れられざるほど強烈なりし。わづか二ヶ月ほど前、大空襲に逃げ出したる折に、假泊せる上野の音樂學校にて給せられたる握り飯の、なにゆゑか薄黒き米粒なりしことが對比せられたるも一因なり。被災者も皆、火の粉を浴び、灰まみれならざる者はなければ、白きものの見ようもなし。
 土まみれの身體なれば縁下に坐して食しながら家の内を窺ふに、廣き座敷の向ひ側に大きなる本棚の見ゆ。その中央に横に幅廣く竝びたるは、手にとりたることはなけれど、いづこかにて見覺えし漱石全集なり。朱色の地に緑の古代文字の書かれをるに、戸外の田にて反射する陽光も加はりて、目もくらむばかりに眩しく感じられたり。いつの日、かかる本の讀み得るとき來たらむか。都會は空襲に壞滅し、既に硫黄島も陷ち、沖繩にても戰の始りたるこの時に、腹も滿ち、明るく靜かなる平和そのものの世界のひろごりたれば、未だ幼き心ばへながら、いつまで續く至福のときならむかと、その時を惜しめり。最初にして最後の田植の經驗かくの如し。




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