文語日誌
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文語日誌(平成十八年八月)
     
                  谷田貝 常夫

契沖研究會理事會と行基町
平成十八年八月二十日(日)




 尼崎塚口の園田女子大學會議室にて開かれし契沖研究會の理事會に出席す。當研究會は十年前、地元尼崎の歴史的人物發掘の一環として近松門左衞門と共に契沖が取上げられ、市民運動としてその顯彰活動を展開しきたれるものなり。一方、國語問題協議會常任理事市川浩氏、己の十數年前に開發せる「新假名、舊假名遣への變換ソフト」に「契沖」なる命名をなし、そのソフトウエアが電網廣報のために契沖畫像を探しをれば、余の關西訪問の折りに見いださむことを約せり。よりて契沖の墓殘れるといふ妙法寺に連絡、住持よりこの契沖研究會の存在を知るに至りたるものなり。下坂の折、東豐中なる會長の吉原榮徳氏宅に赴きて、明治に摸寫せるA三版大の畫像を入手するに至れり。事の序でに東京支部を作られたしとの要望ありて、市川氏共々理事となれる經緯、以上の如し。



 理事會の大半は、契沖顯彰短歌大會への小中學生參加のための詳細計畫なり。第二囘にあたる昨年より、小中學校に働きかけをなし、爲に子供等の和歌應募者一〇七八名、應募歌二八七七首に及び、更に本年は應募者三一六〇名、應募歌四七六八首に及びたること、まさに驚異と言ふべし。契沖の誰なるかを多少なりと聞き及ぶこととなり、更に三十一文字にての言葉の運用をなす、子供らへの教育效果に有用なる、まことに慶賀すべきことにあらずや。



 會議後、祕書役の稻葉さん共々會食せむと吉原榮徳氏の車に乘込む。直後に、大粒の雨降りはじむるかと見る間に想像を絶するほどの驟雨となれり。とまれ車は北に向ふ。夕刻なれども未だ明るければ、街の雨にうたるる樣遠くまで見通せらるるに、「昆陽」なる町名表示見ゆ。この地名、西行が歌にも讀込まれたる攝津のコヤならむ。嘗て學園在職の折、研究紀要の論文にとりあげたることありて記憶に殘りをり、ためにこの地名に懷かしさ感ぜられたり。西行歌を調べたる限りにおきては、釋教歌における蓮臺、南無、閼伽を別とせば漢語はおよそ使はれてをらず、さすればこの昆陽、いかにも漢語じみたれど和語「こや」と想像せらる。語源は如何ならむ。
  冴る夜は よその空にぞ 鴛鴦も鳴く 凍りにけりな 昆陽の池水 西行



 大雨の中を更に進むに、今度は「行基町」なる名が頭上の交通標識にくつきりと浮び上がりて、事の偶然に胸の衝かるるがごとき思ひをなせり。余の版畫作品の一つに「行基葺き」あり。奈良元興寺本堂の屋根を畫材にせしものにて、行基建築時の一部を殘すといはれたるものなり。山巓の如きその繪姿はヒマラヤの嶺も想像せられ、引きては奈良時代にこの建物を造れる行基の嚴しさ、その中にある優しさまで感得せらるるやに覺えて、氣に入りたる作品の一つなり。日頃電話連絡などにて世話になりをる稻葉さんに、感謝の意味をこめて獻呈せんものと、數日前、余にとりては始めての版畫増刷りをなし、持ち歩きをりしところなり。その元興寺行基葺きの版畫繪が今、行基町にあることに感慨あり。吉原氏の言ふ、近くに昆陽寺なる古き寺のある由。町名より察せば、そは行基の創建にかかるものか。行基と西行と契沖とが腦中を交差し、奇妙錯雜たる感に搏たれたり。



 稻葉和子女史、御室流華道の教師なるは知りたれど、今囘、法橋の位に任ぜられたりとか。さすが佛門の華道は、教師の名も由緒ありげに聞こゆ。「法橋光琳」の落款を見しことあり。古きより仁和寺にゆかり深き稱號とは、めでたきこと限りなし。
  樹下美人 婉然として 豐頬なるも わが法橋は 白狐に似たり


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