平成十八年七月二十六日
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平成十八年七月二十六日(土)
     
                  谷田貝常夫
木槿


 一昨年頃より、余が家の前を掃除する習ひ身につきたり。かなり幅廣き通りなれども、近隣の家々こぞりて花卉を育てをれば、落花落葉亂舞し、我が家の路邊を埋むるが故なり。まして櫻の季節ともなればさらなり。枯葉はかなり屑入れに掃き入れ易けれど、地に密着しがちなる花びらを掃くには多少の苦勞あり。まして胡麻粒ほどの金木犀がごとき微細なる花は、砂利鋪裝の隙間にこもりて、掃き出すに手間を要することと知れり。掃き掃除は中腰の作業にて、六十臺を越してより腰に負擔をかくるものとなりたり。かくて、時間の取らるゝ箒使ひは辛き仕事となり、己が記憶力のわるさと共に、おのづと周梨槃特が思ひ出でらる。釋迦に命ぜられて槃特はひたすら掃除をこととなしたれば、悟りは得られたるにせよ、腰の負擔からは逃れらえざらむと想像せらる。


 我が家にひともとの木槿あり。かつては華やかなりし池上の本門寺植木市にて、余が腰程の丈したるを購ひて、玄關前に植ゑたるものなり。「道の邊の木槿は馬に喰はれけり」は芭蕉の句にて、朝開きて夕に散る儚げなさが、我が家に似合はむとの類推故なり。そが毎年夏にさかりと花をつけ、散るも華々しく、今や余の丈の倍を越ゆるほどの高さになりたれば、相應に花も多く散るも多し。「掃きて捨つる程」なれば、七月中旬よりの朝の掃除、缺くべからざる所以なり。

 今朝はその菫花にまじりて蝉の脱け殼を見つけたり。常の年なれば木の枝に殘りをるものなるを、路上に裏がへりたり。昨日のこと想ひ出でられて一段と夏の異變ならむかと想像せらるるとともに、木槿と似たる「空蝉」の境涯に思ひをいたせり。

 一茶が句、「それがしも其の日暮しぞ花木槿」


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