平成十八年七月一日 土曜
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平成十八年七月一日 土曜
     
                  谷田貝常夫
待庵


  豫約なければとて以前斷られたることありし千鳥町「待庵」に電話をかけ、席あるを確認してかみさんと家を出る。隣町なれども徒歩なれば二十分以上もかかりたり。周りに工場などの散見する町なみなれど、待庵の作りはさすが和風然たるものにて、蕎麥處の雰圍氣は釀されをれり。今日は土曜日のためなるか子供連れ多く、しかも必ず父の加はりをるは蕎麥の店なる故か、晝時なれどビール、酒の瓶も見られたり。
 やがて出されたる「せいろ」は外一そばなる由、つまり蕎麥粉九割なれども、そのわりには腰のある噛み心地にて、うましと評價されうるものと滿足す。
 主人に何ゆゑ店を「待庵」と名付くかと尋ぬ。余がこの店にこだはりたるは、世に廣く知られたる名を繼ぐものなるが故なり。日の本に名のある茶室三つあり、いづれも國寶なれど別して「待庵」は千利休の作が確實とせらるゝ唯一の茶室なり。秀吉、明智光秀を討たんと備中高松より後世にも名高き大返しをなして、京に間近の攝津山崎に至り、戰捷後も暫くその地に滯在、そこに千利休を呼びて作らせたる茶室が待庵なりと聞く。先年水無瀬神宮を訪はむと山崎驛に降立ちし折り、驛前に待庵の案内あるに氣づく。一ケ月以前の豫約を要するとあるをさすがと諾へるも、それ以上の興味を抱くことなかりしが、歸宅して後、その名を冠する蕎麥處の近所にあるを聞きて心おだやかならざるままに打ち過ぎをりしなり。まして、當日にても豫約が必要とならば尚更なり。かくて出向きし次第。さて、主人に尋ねたる店の名の由來は、わたしは待つのが好きなるゆゑ付けたりとの答へ。山崎の待庵とひきくらべ拍子のはづれたる氣味なれど、秀吉か利休かは識らず、茶室の名も天下を待つの心より付けたるものかとも覺えられ、ここの主人、蕎麥を打ちならがいづれの天下を待望せるものかと、多少の感なきにしもあらず。


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