文語日誌
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文語日誌(平成二十三年四月某日)
     
                  土屋 博

青淵澁澤榮一翁の主要著作に就いて(中)
平成
二十三年 四月某日
      


 「青淵先生世路日記雨夜物語」(一九一三)、澁澤翁自傳の原型となりたる書誌的に重要なる作品なり。本書は八千四百圓にて購ひしが、その後杳として古書市場に出囘ること無し。序文にて郷誠之助氏澁澤翁を評して曰く、「實業界に匹敵する人物なし、ただ政治界に故伊藤公あるのみ。〔中略〕日常粗衣粗食に甘んじて敢て邊幅を飾らず、個人の爲でなく社會の爲に獻身的に努力せらるる。」と。
「青淵修養百話 乾坤」(一九一五)、「青淵百話」の續編と言ふべきものにて、「現代青年の責務」より「懷舊雜談」まで、明治二十四年より大正四年までの講話百篇を收む。「余が古稀の感想」にては「老人は過去を説きたがる。若い人は未來の理想を言ふ。中年の人は現世に心を盡す。三世新舊事物の調和を考ふべし」と述べ、各世代に注文を附せり。
「論語と算盤」(一九一六)、道徳(論語)と經濟(算盤)の兩立、すなはち「道徳・經濟合一説」、「義利兩全」を説けり。「私は常に士魂商才と言ふことを唱道す。論語は士魂養成の根底をなすもの」とす。澁澤翁の代表的著作の一と言ふべし。
「村莊小言」(一九一六)、飛鳥山の村莊にて翁より口授せられたるものにて、「小言」は「せうげん」と讀むも、「天下國家の前途を杞憂して發した小言幸兵衞以上の小言が含まれて居らぬとも強ちし得られぬ」とす。「愛嬌に乏しき高橋是清男」にては、娘の結婚式に際し高橋に祝辭を頼みたるところ、餘りにその場に不似合ひなる口調の祝辭でありしこと之有り、「私が高橋君に望むところは、十分のことを八分にて致すやうにし、多少の愛嬌があつたならば申し分のない人」と評す。
「實業家處世訓」(一九一六)、翁の喜壽を祝ひて博文館より刊行されし愛すべき函入りの書籍なり。「大正思潮と世界的大勢」にては、「私は一部の人の言ふ如く此の大正の時代を以て守成の時代と言ひたくない。明治の進歩發達を基礎として其の上に立つて新たなる進歩發達を眞面目に沈著にしかも勇敢に求めたい。」とす。
「至誠努力 修養講話」(一九一八)、七六二頁に及ぶ大著にて、「父母の俤」は特に興味深し。「母の乳房に縋つて風車の廻るに興ずる頃、客が入つて來る時、辭して歸る時、障子を半ば開けた儘にして置くと、自分は母の懷からしげしげと見て『また障子を閉めずに行つた』と叱るやうに言ふので、客の手前、母は極り惡がつて、言ふな言ふなと制すれど、聽かばこそ、ピシャリと閉めきらぬうちは、飽くまで執念く叫び立つるので、はじめての客などは赤面して引退がる」、「物事に對して秩序を求むることは性癖の一つである」とす。
「世渡りの修養」(一九一八)、道徳より婦人の處世までを論ず。「世界人を友にせよ」にては、「歐州大戰勃發以來の近世文明の價値に對して淺からぬ疑惑を抱けリ」としつつ平和を希求せんとす。
「青淵先生訓言集」(一九一九)、青淵先生の五十餘年に亙る訓言・名言を「龍門雜誌」(澁澤翁の徳を慕ふ人々の集まる龍門會の發行したる雜誌)や單行本などより選りすぐり、讀者の需要にこたへ一册に纏めたるものなり。
「世に出る青年へ」(一九二〇)、「余の立志觀」、「現代學生氣質」など、特に青年のために説きたるものを集む。
「處世訓」(一九二一)、「自ら進んでとれ」から「至誠盡忠の人」まで、男爵多年の經驗を踏まへたる訓言の數々なり。「今の世は往昔と違ひ階級制度と云ふ變なものもとれ、其の器量次第では百姓の子も廟堂に起つて經綸を行ふことが出來る」とす。
「實驗論語處世談」(一九二二)、大正四年から十一年までの毎月の直話を纏めたるものなり。澁澤論語の決定版と言ふべく、「論語講義」より遙かに面白く、澁澤本人の肉聲が感じられ、説得力あり。明治・大正期の有名人物に就いての澁澤の評は壓卷なり。伊藤博文公に就いては、「伊藤公は、他人が起草した文章を見ても決してすぐ襃めることなどしなかつた。色々と好んで難癖をつけ自分が一番豪いのだということにしたがつた。ところがどう訂正したら宜しいかと聞くと元來文章の巧く書けなかつた御仁であるから、チャンとして返答できず、頗る曖昧な調子で『そこはその何とか考へて』などと答えるのみ」、「伊藤公は、四方八方から論理づくめでピシピシ攻め寄せ、必ず古今東西の例證を澤山に引照せらるるを例としたものである。その博引傍證には一度伊藤公と議論を上下した者は誰でも皆驚かされた」と。大久保利通公に就いては、「大久保公は私にとつて蟲の好かぬ厭な人であつたにしろ、公の達識であつたのには驚かざるを得なかつた。器ならずとは必ずや公の如き人を謂ふのであらう」と。西郷隆盛公に就いては、「西郷公は、平生は優しい柔和な顏立ちであつたが、ひとたび意を決せられた時の顏は、恰も獅子の如く何處まで威嚴があるか測り知れないほどであつた」、「京都で鹿兒島名物の豚なべをご馳走になつて歸つたことが兩三囘はあつた」、「西郷公が官位の低い私が住んでゐた神田猿樂町の茅屋に陳情に來られたこともある」と。
「青淵實業講話」(一九二三)、「商人と社會奉仕の精神」など三十一の講話なり。
「手寫 論語」(一九二七)、和裝帙入りにて、澁澤翁の手寫したるものの複製にて、眞面目ににして丁寧なる筆蹟、澁澤翁の人柄、如實に顯はれたり。
「青淵囘顧録 上下」(一九二七)、三方金の美しき書籍にて、總計千四百頁を越ゆ。青淵先生の口述したる囘顧談に加ふるに、第一附録「青淵論叢」、第二附録「諸名士九十五人の子爵觀」を附す。周到に準備されし出版物にて、何度も讀み返す價値ある不朽の名著とこそ言ふべけれ。「英國ラプソーン・スミス著の『百歳不老』を讀んだが結局六十歳以上になつたら節制に注意すべきと書いてある。これは私の考へと一致して居る」とす。
「青淵先生訓話集」(一九二八)、澁澤翁の米壽を記念して刊行せられたるものにて、國家訓、國際訓、政治訓、經濟訓等より成る。「我が國は東洋の君子國として犧牲、報恩の觀念を有することの厚い國であつた。此の特長が段々薄らいだと云ふことは悲しむべきことであるが、これを要するに教育が餘りに知育萬能に傾いたからである。之れを引き直さなければ、遂に功利の國になつて仕舞ふ虞れがある」と懸念を表明す。
「論語講義 乾坤」(一九二八)、二松學舍にて大正十二年から十四年まで通信教育の講義を行ひし記録を集大成せり。冒頭の論語總説にて翁曰く、「余が實業界に立ちて自ら守るべき規矩準繩は之を佛耶の二教に取ること能はず、論語は日常身を持し世に處する方法を一々詳示せられて居るを以て、此に依據しさへすれば人の人たる道に悖らず、何事にても判斷に苦しむ所があれば論語の尺度を取つて之を律すれば、必ず過ちを免るるに至らんと硬く信じたり」と力説す。本書は故三島中洲先生との共著に近き成り立ち故、澁澤論語としては「實驗論語」にやや及ばずと覺ゆ。
「處世の大道」(一九二八)、「實驗論語」の表題を更へしものなり。終戰直後、巣鴨の監獄にて戰犯岸信介氏、本書の差し入れを受け、感激して七囘讀み直したるところの名著として有名なり。(岸信介氏は、總理退任後に、「論語と澁澤翁と私 上・中・下の一」(一九六三―六七)を著し、澁澤翁への深き感謝と尊敬の念を表したり。)
「澁澤青淵 處世訓言集」(一九二九)、東洋生命保險(株)刊の四十五頁に過ぎぬ袖珍版なるが、常時攜帶するに極めて便利なり。「子弟教育の方法」に「子弟の教育は同族の家道盛衰に關する所なり。男子の教育は勇壯活發にして常に敵愾の心を存し、能く内外の學を修め且つ其の理を講究して事に當りては忠實に之を遂ぐるの氣象を養はしむべし。」とあり、味わひ深し。人の親たる者かくなる心掛け持ちつつ子弟の教育に當たるべし。
「世界の驚異 國寶澁澤翁を語る」(一九二九)、澁澤翁の米壽祝賀會の模樣を彷彿とさせるものなり。田中義一首相、その祝詞に曰く、「翁今や齡將に九十ならんとして盛名清福兩つながら之を領す」と。


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