文語日誌
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文語日誌(平成二十三年二月某日)
     
                  土屋 博

青淵澁澤榮一翁の主要著作に就いて(上)
平成
二十三年二月某日
      


 青淵澁澤榮一翁(天保十一年―昭和六年(一八四〇―一九三一))の著作羣の數々は、言はば當事者より見たる日本産業發達史とも言ふべきものなり。それらは、遙かに時代を超え後世代への教訓・示唆に滿ち滿ちて、榮一の氣迫、息遣ひ直接傳はり來る心地こそすれ。
 澁澤榮一は、武藏國血洗島の豪農の家に生まる。幼き頃より四書五經を學び、劍術は千葉道場にて修業す。尊王攘夷思想に目覺め、高崎城乘つ取りを計畫するも、斷念の餘儀なきに至り、京都に逃げ、思ひがけず一橋慶喜に仕ふる身となる。慶喜の將軍となりて後、慶應三年、慶喜の弟徳川昭武の巴里萬博に赴くに際しその隨行を命ぜらる。一年間の佛蘭西滯在は澁澤に産業振興の重要性、株式會社制度の利點を強く認識せしむ。大政奉還により急遽歸國後は、歐州にて學びたる會社制度の靜岡藩への定著に努む。やがて、澁澤の手腕を買ひし大隈重信に請はれ大藏省に出仕し、度量衡、銀行條例などの制定に攜はる。澁澤邸を訪ひし西郷隆盛より陳情(相馬藩興國安民法の繼續要望)を受けたることもあり。大久保利通らの壓力に屈することなく健全財政を主張したる井上馨と進退を共にし辭表提出せし後は、實業界の發展に寄與することこそ我が使命なれとの強き信念のもと、第一國立銀行頭取に就任す。以後、王子製紙、大阪紡績、日本郵船、東京瓦斯、日本煉瓦製造、札幌麥酒、帝國ホテル、石川島造船所、日本精糖、東京電力、帝國劇場など、廣範なる分野における數多の企業の設立・運營に關はり、「日本資本主義の父」と呼ばるるに至る。加之、社會活動にも力を注ぎ、東京養育院など社會事業に貢獻する一方、商法講習所(一橋大學)、大倉商業學校(東京經濟大學)の設立など商業教育の普及に盡力す。更に、外交・國際親善にも多大の貢獻をなし、特に日米關係に就きては、數次にわたり訪米經濟使節團の團長となりしほか、太平洋問題調査會長として、對日移民法問題等への對應に努めたり。歴代の米國大統領とは、グラント、ルーズベルト、タフト、ウィルソン、ハーディングと個別に會見す。
 
 以下、小生の藏書より青淵澁澤榮一翁の著作の主要なるものを紹介せんとす。「青淵」とは澁澤榮一の號にして、榮一の實家の下に淵ありて、淵上小屋と呼ばれしことに由來す。
「青淵先生六十年史(一―二)」(一九〇〇)、澁澤榮一の還暦を記念して刊行せられたる二千二百頁に及ぶ大著にて、「一名近世實業發達史」との副題を附せり。青淵先生の生涯を膨大なる資料を踏まへつつ辿るとともに、産業界への榮一の貢獻振りを個別産業(銀行業、海運業、鐵道業、紡績業、セメント業、製紙業、瓦斯事業、電氣事業等のほか公益事業も含む。)ごとに詳述したり。航西日記、退官時の辭表など澁澤自身の執筆したる數多の文獻も收められ、資料的價値極めて高し。「航西日記」より劇場に關する箇所を引用せば以下の如し。
『佛帝の催せる劇場を看るに陪す。此の劇場を看るは歐州一般の祝典にして、凡重禮大典等終れば必ず其の帝王の招待ありて各國帝王の使臣等を饗遇慰勞する常例なり。故に往くことにして、其演劇の趣向仕組分明ならざれども、多くは古代の忠節義勇、國の爲に死を顧みざるの類、感慨ある事蹟、或は正當適直の譬諺にて世の口碑に係り、人の可咲事を交へ、詞は接續に言語ありて大方は歌謠なり。』
「澁澤男爵 最近實業談」(一九〇三)、歐米外遊に先立つ送別會の挨拶、布哇など現地到著時の挨拶、歸國後の講演、明治三十五年の歐米漫遊記など收む。
「富源の開拓」(一九一〇)、幻の名著にて、何年も搜し求め、漸く古書市場に登場したる瞬間、二萬圓にて購入す。執筆時の時局的話題についても言及あり。たとへば、「日韓併合は朝鮮側から言つても滿足に思ふことであらう。多年の壓政に苦しんでゐたのが仁政に浴することになつたのであるから、恰も蘇生の思ひをなすべき筈である。侵掠的に高壓を加へたのとは譯が違ふ」、と説く。
「青淵澁澤先生七十壽祝賀會記念帖」(一九一〇)、當時の代表的人物たる大隈重信の延々と長き祝辭竝びに榮一本人の丁寧なる答禮挨拶、更に祝賀する人々の詩文等を收む。大隈侯曰く、「我輩が會計官に澁澤君を説いて國の爲に力を盡さうといふことになつて以來四十二年」、「慶應二年に佛蘭西に行かれて歐羅巴の文明を直に目撃されたに就いて殊に敢爲の念が壯んであつたと思ふのである」と。
「實業要訓」(一九一一)、次代の實業家たる青年に當てたるものにて、「國民として國家に盡すべき道は、文を以てす、武を以てす、實業を以てす、の三つに大別することを得」と説く。「予の日課」によれば、起牀後は必ず朝湯に入る。入浴し終れば精神は爽快となり元氣は頬に加はる由。
「青淵百話 乾坤」(一九一二)、同文館主人の需めに應じて平生の感想を公にしたるものなり。乾の卷、「第一 天命論」より「第六十七 克己心養成法」までを收む。坤の卷は「第六十八 元氣振興の急務」より「第百 退官と建白書」まで、附録に「青淵先生小傳」を附す。「青淵百話」は、扱ひたる話題の多樣さ、内容の讀み應へよりして、澁澤翁の代表的著作と言ふべし。「青淵百話」より心に殘る文章を幾つか引用せば、以下の如し。
『益友を近づけ損友を遠ざけいやしくも己に諂ふ者を友とすべからず。』
『王荊公は讀書する場合の心得を述べて、好書は心記にあり、と喝破してゐるが、尤も千萬のことで、讀んで心に殘らぬ樣なことなら、萬卷の書を讀破した者でも尚よく一册を記憶する者に及ばぬ譯である。』
『働く場合に充分精神的に働いたなら、遊ぶ時にもまた此の疲勞を醫す可く充分に遊ぶがよいので、遊ぶ時に充分精神を込めて遊ばぬ人は働く時も充分精神を込められるものでない。』
『足るを知りて分を守り、これは如何に焦慮すればとて天命であるから仕方が無いとあきらむるならば、如何に處し難き逆境に居ても心は平らかなることを得るに相違ない。』
『彼の孔子が、疏食を食ひ水を飮み肱を曲げて之を枕とするも樂亦其の中に在り、と曰うたのも、要は不義にして富むよりも寧ろ貧賤に甘んずるがよいとの趣意で、仁義を行うて富んだ者も矢張り左樣にせよといふ意味ではない。』
「澁澤男爵實業講演 乾坤」(一九一二)、明治二十四年から大正元年迄の澁澤男爵の財政・經濟・商工業等に關する講話演説を年代順に百三十篇ほど蒐集したるものなり。「理財の妙用は永遠を期するに在り」てふ講話にては、「財政を處理していく事柄は、リューマチを皮下注射で一夜のうちに瘉すのとは譯が違ふ」と説く。


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