文語日誌
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文語日誌(平成二十三年一月某日)
     
                  土屋 博

徳富蘇峰の主要著作に就いて(下)
平成二十二年十月某日
      


「皇國日本の大道」(一九四一)、大東亞新秩序の建設を説く。
「日本を知れ」(一九四一)、ラジオ放送、日比谷公會堂等における講演記録にて、開戰直前の状況を手に取る如く追體驗すること可能なり。「東亞新秩序を建設する前途に横たはる障碍はアングロサクソンなり」とす。
「陸軍大將川上操六」(一九四二)、川上の容貌秀麗、擧動俊敏、言語爽快、堅志強行なりたりと囘想し、その早逝を惜しむ。
「宣戰の大詔」(一九四二)、十二月八日に渙發せられたる詔書を、三千年來の歴史の中に養ひ來りたる日本精神の一大發現なりとす。
「興亞の大義」(一九四二)、昭和十七年一月ラジオ放送したる講演「大東亞指導者としての日本の使命」を收む。
「吉村勝治編 蘇峰百絶略解」(一九四四)、和裝の美しき書籍にて、「唯祷ル殘生二十年」は六十一歳になりし折り國民史完成のため二十年の餘生欲しと祈りたるものなり。
「必勝國民讀本」(一九四四)、「何故に我等は勝つか、そは大義名分あればなり」と主張す。
「蘇翁感銘録」(一九四四)、「四恩堂」にて、四人の恩人(父淇水、横井小楠、新島襄、勝海舟)に報恩・感謝の念を示す。
「皇國必勝論」(一九四四)、トックヴィル、ブライス等の英文原書を研究したる蘇峰の、敵國を解剖する論述なり。
「皇國必勝の道」(一九四五)、大日本翼贊壯年團中央本部の昭和二十年一月に刊行したる希少性高き古書にて、紙質は最惡なるも、當時の考へ方知り得て、歴史的價値あり。「我が必勝の三要素」は、イ物的要素、米國は元來六十萬トンのゴムを輸入せしところ、これ杜絶し、足を奪はれ嘆きの聲を發す。ロ人的要素、わが國の人口増加は昭和十六年百七萬に對し、英國は十五萬に過ぎず。消耗率は英米の方、より激し。ハ靈的要素、彼らの戰爭を見ること、猶野球、蹴球若しくは拳鬪に於けると同一にして、是非とも勝ち拔くの精神氣概乏し。「大東亞戰爭は、日本人にとりての祓ひにして、禊なり。我國民精神は、この大なる試練の中に淨化せられつつあり、將來更に一難を經る毎に、淨化せられん。青壯年今ぞ起つべし、銃後における體當たり活動の先驅的實踐者として一大奮起すべし」と説く。


「敗戰學校 國史の鍵」(一九四八)、日本の民は敗戰學校の生徒たるを忘卻し居るかの如く察せらる、とす。
「國史隨想 平安朝の卷」(一九四八)、日本歴史の光明の一面を代表したる菅原道眞に就いて語る。
「世界の二大詩人」(一九四九)、「杜甫と彌耳敦」(一九一七)を改題したるものなり。
「徳富蘇峰翁と病牀の婦人祕書」(一九四九)、昭和十八年七月より十一月までの祕書八重樫東香宛の蘇峰の書簡、百三十通を集録す。祕書への熱き思ひ、溢るる如し。
「勝利者の悲哀」(一九五二)、朝鮮事變の勃發を「予の豫知したるとほりなり」と嘆く。
「讀書九十年」(一九五二)、索引を見ば一目瞭然なるが、その扱ふ書籍、古今東西に及べり。愛讀せし英書には、コブデン、ブライト演説集、ミルトン最後の作「サムソン・アゴーニステス」、エマーソンのエッセー「セルフ・リライアンス」などあり。數多の漢籍言ふもさらなり。日本は書籍の寶庫にして、中國にて失はれたる稀少本、日本の寺院に大切に保存されてきたりしこと、更に蘇峰自ら復刻したる話など、興味盡きず。


「國史より觀たる皇室」(一九五三)、我が國皇室には一大求心力ありたりとす。
「源頼朝(上)(中)(下)」(一九五三―四)、日本にも世界のいかなる英雄とも互角に相撲をとる頼朝の如き人物の存したることを説く。
「新島襄先生」(一九五五)、同志社創立八十周年記念出版物にて、蘇峰の新島先生に就いての諸論文、ここに集大成されたり。
「徳富蘇峰先生作詩集 上下」(一九六七―八)、蘇峰會の出版にして、蘇峰の詩作を年代順に竝べたり。
「三代人物史」(一九七一)、近世日本國民史の續編と稱すべきものにして、昭和廿九年に讀賣新聞に連載せるものなり。讀みやすく、内容深く、萬人向けの不朽の名著として廣く推獎す。
「筑摩明治文學全集三四 徳冨蘇峰集」(一九七四)には獨歩の蘇峰評あり。「氏は知りて言はず感じて論ぜざるを罪惡とみなす説を抱く人にして、之を實行せる人なり」とす。
「徳冨蘇峰 歴史の證言」(一九八〇)、提出したるも米人檢察官に卻下されし「東京裁判宣誓供述書」を收む。大東亞戰爭の目的、自存自衞なりたることを明らかにす。
「講談社學術文庫 讀書法 讀書九十年」(一九八一)、「讀書九十年」(一九五二)の再刊なり。
「徳富蘇峰關係文書 第一卷」(一九八二)、蘇峰宛の鑑三、天心、兆民、鴎外、逍遙らの書簡を集録す。
「講談社學術文庫 靜思餘録」(一九八四)、名著の愛すべき復刻版なり。
「徳富蘇峰關係文書 第二卷」(一九八五)、蘇峰宛の山縣、松方、川上、後藤らの書簡を集録す。
「徳富蘇峰關係文書 第三卷」(一九八七)、蘇峰宛の蘆花、海舟らの書簡を集録す。
「中公文庫 蘇翁夢物語」(一九九〇)、「我が交遊録」(一九三八)の復刻なり。
「高野靜子著 蘇峰とその時代」(一九八八)、勝海舟、新島襄、蘆花、鴎外、露伴らよりの蘇峰あて書簡を紹介す。
「弟 徳冨蘆花」(一九九七)、世間の誤解を解くため、弟蘆花との關係の眞實を祕書に言ひ遺したるものなり。
「高野靜子著 續蘇峰とその時代」(一九九八) 、與謝野鐵幹、吉野作造、賀川豐彦らからの蘇峰あての書簡を紹介す。
「高野靜子編著 往復書簡 後藤新平 徳富蘇峰」(二〇〇五)、後藤新平より蘇峰への書簡五十三通、蘇峰から後藤への書簡十八通を寫眞入りにて紹介する豪華本なり。蘇峰、書簡を大切にすること熱心にして、四萬六千通の書簡を所藏す。差出人は一萬二千人に及べり。


「徳富蘇峰終戰後日記 頑蘇夢物語」(二〇〇六)、昭和二十年八月から十一月までの蘇峰の日記なり。當時は公職追放により意見發表の機會閉ざされ、幻の日記とせられ來れり。日本の戰爭に負けたる原因を論じ、とりわけ昭和天皇を輔弼したる人々の責任を嚴しく糾彈す。日露戰爭時の明治天皇の、親しく先頭に立ちて廣島に大本營を構へ給ひたると比較せば、今上天皇(昭和天皇)の非常の際の統帥權總攬は不十分とせざるを得ずとす。蘇峰自身が直接天皇に上奏せんとせしが、側近等に阻まれたるを悔やむ。


「徳富蘇峰終戰後日記U 頑蘇夢物語續篇」(二〇〇六)、昭和二十一年一月から六月までの蘇峰の日記なり。マッカーサーが幣原を信用したる理由は、シナ事變以後の英文日記を眺めたるためなる由。食料不足の状況下で、占領軍野坂共産黨を利用したるは、毒をもつて毒を制する如きものなりと指摘す。占領軍の神道を宗教と位置づけたることに反發し、靖國の財團法人化を嘆く。戰場で斃れたる勇士の靈を弔ふことはいづれの國にも珍しくなく、屈原の「離騷」、ペリクレスの演説、英國のウェストミンスター、フランスのパンテオンを例示す。
米國化より日本を護る途として以下の三か條を擧ぐ。
(1) 皇室制の存續
(2) 日本歴史の研究(世界、東洋の一部として)
(3) 教育 私塾
スターリン統制のソヴィエット連邦は、露西亞帝國同樣、世界制霸の大魔王なりと評し、日本國民が結束して共産主義を驅逐する必要ありと強調す。當時、共産黨はフランスにて第一黨、支那にて第二黨と勢ひを増す中、米ソ對立の構圖を早くも認識せり。


「徳富蘇峰終戰後日記V 頑蘇夢物語歴史篇」(二〇〇七)、昭和二十一年六月から十二月までの日記なり。歴史篇と謳はるるだけのことはあり、特に二十四囘にわたる『日本歴史の再檢討』は壓卷なり。世界史・中國の歴史への造詣の深さを披瀝しつつ、自らの歴史觀を自在に展開す。東京裁判を日本罪惡史編纂のためのものなりと位置づけ、證人發言を行ひたる溥儀の戰前との豹變ぶりを嘆き、昭和十年の蘇峰と溥儀との會見録を附録とす。


「徳富蘇峰終戰後日記W 頑蘇夢物語完結篇」(二〇〇七)、終戰後日記の最終卷にして、昭和二十二年一月から七月までの日記なり。數への八十歳にても全く衰へぬ氣迫、漢學・洋學の素養を踏まへたる自在の日本語表現は、これからの高齡化社會を生くる模範ともなるべし。話題はマッカーサーのゼネスト中止より、大東亞戰爭の敗因、さらに明治時代の政局囘顧に及べり。「米國の占領政策の日本にてうまく行きたるは、相手が日本人であるからなり。他の國ではうまく行くはずなし」、といふは豫言として正し。
(英語學者渡部昇一氏によれば、蘇峰の英語力は明治・大正期の日本のトップクラスのものにして、海外の主なる雜誌、書物は悉く咀嚼し、たとへば、ミルトンに關する著作のレベルは今日よりみてもきはめて高水準のものと評價し得るとす。)



「要約近世日本國民史 全十册」(一九六七―八)、「近世日本國民史」の全體の流れを手つ取り早く知り得るもの。さらに、平泉澄「解説 近世日本國民史」(一九六三)は、新書一册にて全體を鳥瞰出來、かつレベルの高き名著なり。そもそも「近世日本國民史」全百册は、大正七年五十六歳にて著手し、九十歳にて完成したる、徳富蘇峰のライフワークなり。蘇峰の面目躍如たるは秀吉の朝鮮出兵の場面にて、朝鮮側の史料も驅使す。手許の國民新聞連載當時の新聞切り拔き帖數册を見るに、血沸き肉躍る。


蘇峰會誌(一九三〇―四四)、蘇峰ファンの集まりたる蘇峰會の會報にて、年三囘程度出版され、蘇峰の講演記録など收む。末期には南方にも蘇峰會の支部開設せられたる由。


雜誌「晩晴」(一九六七―七六)、蘇峰先生彰徳會發行の雜誌なり。雜誌名の「晩晴」は、蘇峰の晩年に住みし熱海伊豆山の晩晴草堂にちなむもの。彰徳會の理事長は正力松太郎、理事に小坂善太郎、堀内光雄、評議員には中曾根康弘ら名を連ねたり。
正力氏は、日本語の著作數が最高にて、洋書・漢書も讀みつくしたる蘇峰を「世界最高峰の人物」と稱へたり。
蘇峰を深く尊敬する中曾根氏は、蘇峰から「二つの遺言」として、憲法改正と對米追隨を直接課されし旨を述ぶ。


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