文語日誌
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文語日誌(平成二十二年十月某日)
     
                  土屋 博

徳富蘇峰の主要著作に就いて(上)
平成二十二年十月某日
      


「國民之友 第一―八號」(一八八七)、明治二十年に創刊されたる雜誌「國民之友」の創刊號から第八號まで和綴じにて合本したるものにして、當時の總合雜誌の知的レベルの高さを實感せずんばあらず。
「誕生日」(一八九一)、一年三百六十五日、毎日これはといふ名文(殆どは漢文中心なるが、一部には聖書なども)を嚴選したる袖珍サイズの愛すべき稀覯本なり。小生が一萬二千圓にて購ひたる古書には、蘇峰自身の肉筆の書き込みあり。「本書は杳として散逸す。・・・君その初版本を得たるは實に幸運と謂ふべし、希くは愛讀せよ 昭和二十年」と。

蘇峰初期の名著、「國民叢書」全三十六册を揃ひにて所有するは、戰前の讀書人垂涎の的なりき。今日ネット社會の情報により、關東大震災や戰災を潛り拔けたる本叢書を蒐集するの夢實現したるを悦ぶ。
「國民叢書第一册 進歩乎退歩乎」(一八九一)、保守的反動の大勢の來らんことに對し挑みたるここ數年の論文を收録したるものなり。
「國民叢書第二册 人物管見」(一八九二)、「新日本の二先生」として物質的知識教育の福澤諭吉先生と精神的道徳教育の新島襄先生を擧ぐ。
「國民叢書第三册 青年と教育」(一八九二)、御用教育に反對を陳べたるものなり。
「國民叢書第四册 靜思餘録」(一八九三)、序に言ふ。「理想に生活するもの、何ぞ獨り哲學者のみならん、何ぞ獨り詩人のみならん、何ぞ獨り宗教家のみならん。すべての人の胸中に、哲學あり、詩あり、宗教あり、題して『靜思餘録』といふ、これ記者が最近五、六年間、精神的年代記なり」と。日本語表現の可能性を最大限に高めたる名文の寶庫として、その社會的影響力は絶大なりき。最大の雄辯家といはれたる永井柳太郎、中野正剛等は、その講演にて「靜思餘録」を援用し、會心の一節を諳んずるを常とす。
「吉田松陰」(一八九三)、「維新革命前史論」と言ふべきものにて、「國民之友」に十囘連載されたる論文なり。
「國民叢書第五册 文學斷片」(一八九四)、我が青年をして獨立、自尊、自活、勤勉、誠實にして欺かず、以て天賦の能力を發揮して善良なる市民となり、愛國義勇の國民とならんことを願ふものなり。
「國民叢書第六册 天然と人」(一八九四)、讀者の心頭に一片の冷水を灌ぎ、その懷裡に一掬の涼風を送らんとするものなり。
「國民叢書第七册 第二靜思餘録」(一八九五)、二十七八年役忙裡の筆。
「國民叢書第八册 風雲滿録」(一八九五)、廣島大本營よりの臨場感溢るる報告なり。
「國民叢書第九册 家庭小訓」(一八九六)、「華盛頓の大統領となるや、人その母に向かひて彼が偉大なる人物たるを賞贊す。母平然として曰く、彼の平生他の奇を見ず、但だ兒童たる時能く丁寧に習字帖に臨みたるのみと」の如き插話紹介す。
「國民叢書第十册 經世小策 上下」(一八九六)、日本は大義を四海に布くの大精神を發揚し、東洋の羅馬を以て任ずべき、と説く。
「國民叢書第十一册 單刀直入録」(一八九八)、「一筆啓上火の用心」の例に倣ひ、見る所、思ふ所を江湖に紹介せんとするものなり。
「國民叢書第十二册 寸鐵集」(一八九八)、沙翁を解する者は沙翁と共通の心靈を有するものたらざるべからず、とす。
「國民叢書第十三册 文學漫筆」(一八九八)、國民的性情陶冶により健全なる感化を及ぼさんとするものなり。
「國民叢書第十四册 漫興雜記」(一八九八)、人の肺腑に徹するの天籟は往々不用意の漫興中に於て見るべし、とす。
「國民叢書第十五册 世間と人間」(一八九九)、八十三頁に及ぶ「匈牙利」を收む。「亞細亞人たる彼等が歐州にありてアリヤン人種と角逐するの風をみれば、我が雄心を鼓吹するものなきにあらず」とす。
「國民叢書第十六册 社會と人物」(一八九九)、はしがきにて國民叢書の發行部數の延べ十五萬部を越えしことを感謝す。
「元田先生進講録」(一九〇〇)、熊本出身の元田永孚先生の兩陛下への論語進講録に蘇峰の緒言を附したるもの。
「國民叢書第十七册 生活と處世」(一九〇〇)、蓋棺數百年を經て論未だ定まらざる者ありとす。
「國民叢書第十八册 日曜講壇」(一九〇〇)、明治三十三年三月四日の「平凡なる生活」の一文を以て始まる。
「國民叢書第十九册 處世小訓」(一九〇一)、「謠曲鉢木を一讀する者は、如何に温かなる情緒の我が日本國民に存したるかを知る可し」とす。
「國民叢書第二十册 人物偶評」(一九〇一)、「痩我慢の説を讀む」にて、「一戰も交えず官軍に降伏し江戸城を明け渡したる武士の風上にも置けぬ」と勝海舟を批難したる福澤諭吉の發言に、異を唱へたり。
「國民叢書第二十一册 教育小言」(一九〇二)、時勢に應じて施すべきときなりとす。
「國民叢書第二十二册 第二日曜講壇」(一九〇三)、俗人の俗人に對する説話なれど濟世の一端なりとす。
「國民叢書第二十三册 近時政局史論」(一九〇三)、世間の皮相なる見方を遺憾に思ひ中正平常なる觀察を心掛けたるものなり。
「國民叢書第二十四册 第三日曜講壇」(一九〇三)、「日英同盟の國民的性格に及ぼす影響如何」など收む。
「國民叢書第二十五册 第四日曜講壇」(一九〇四)、はしがきに「明治三十七年九月我が征露第二軍海を渡りつつある所」とす。 
「國民叢書第二十六册 第五日曜講壇」(一九〇四)、黄禍論について論ず。「蓋し、黄禍説の如きは、我が帝國にとりては、國家の世界に於ける地歩を推進したる確證と爲すを得べし」と言ふ。
「國民叢書第二十七册 第六日曜講壇」(一九〇五)、力の福音を主題とす。
「國民叢書第二十八册 讀書餘録」(一九〇五)、「近世文明の恩惠を數ふれば其の重なる一は書籍の普及にある可し」とす。
「國民叢書第二十九册 第七日曜講壇」(一九〇六)、「英國の士族と日本の士族」など收む。
「七十八日遊記」(一九〇六)は、定價三圓八十錢、限定三百部和裝帙入りの豪華特製本にして、韓國、滿州、北清、長江一帶を漫遊したる折の紀行文なり。
「國民叢書第三十册 第二天然と人」、「本書の如きは一種の過去帖のみ」とす。
「國民叢書第三十一册 第八日曜講壇」(一九〇七)、日本國が物質的に偉大なることは既に證明せられ、この上は國民の精神的涵養の必要を説く。
「吉田松陰 新版」(一九〇八)、「吉田松陰 舊版」(一八九三)の發表後、長州出身の松陰を知る乃木將軍よりクレーム多數來り、その後の新たなる情報等も踏まへつつ、全面的に書き直したるものなり。新版にては、松陰の革命家的色彩、薄まれり。(現行岩波文庫は舊版を採用せり。)
「國民叢書第三十二册 第九日曜講壇」(一九〇九)、日本人は兎角一騎打ちの功名に走り組織力に缺くると見られ勝ちなるが、必ずしもさにあらずと言ふ。
「國民叢書第三十三册 第三天然と人」、「伊藤公の遭難」にて、公は韓の恩人たるに誤解は眞に恐るべしと述ぶ。。
「國民叢書第三十四册 第十日曜講壇」(一九一一)、「老書生」にて虞翁(グラッドストーン)が八十一歳にして再び牛津大學に赴き一週間を學生とともに生活したるを紹介す。
「國民叢書第三十五册 第十一日曜講壇」(一九一一)、はしがきにて朝鮮にて成功したる鑛山師が「日曜講壇」を常に手提鞄に攜帶し愛讀したることへの謝意を表す。
「國民叢書第三十六册 第十二日曜講壇」(一九一三)、現今の世界の二大不安として「勞働者の資本家に對する反抗」と「有色人種の白皙人種に對する反抗」を擧ぐ。
「時務一家言」(一九一三)、桂公の臥病により實行が困難となりたる蘇峰の政策提言を改めて公にしたるものなり。
「政治家としての桂公」(一九一三)、藩閥出身者の中で桂公が最も自由進歩の思想の推進者なりし、と囘想す。
「世界の變局」(一九一五)、「歐州政局の推移」、「極東政局の變遷」、「米國の帝國主義」など收め、「自ら守る力なく徒に他の好意に自國の運命を依頼するが如きは自殺行爲なり」と説く。
「兩京去留誌」(一九一五)、明治四十三年朝鮮總督寺内伯より「京城日報」監督を依頼されし以來、毎年數次に亙り京城と東京を往復したる副産物なり。
「蘇峰文選」(一九一五)、千四百頁を越ゆる大著にて、國民新聞創刊二十周年を記念し、蘇峰のこれまでに發表せる主要著作のさはりを集成す。
「大正政局史論」(一九一六)、「日本は自ら率先して東洋におけるモンロー主義を實行する能はずんば他の盟主を仰ぐことにならん」と警告す。
「大正の青年と帝國の前途」(一九一六)、「白閥を打破し東西洋における人種的不平等を救治し其の均衡を囘復せしむるは日本帝國の使命なり」とす。
「杜甫と彌耳敦」(一九一七)、「東西の兩詩傑は我が四十年に垂んとする耐久朋なり」とし、兩詩傑を熱く語れる。
「支那漫遊記」(一九一八)、大正六年九月より十二月にかけての旅行記なり。「支那は懷舊弔古の老大國として取り扱ふ可きのみならず、今日及び將來に於て世界の大舞臺に其の役目を働く可き偉大なる邦國として取扱はざる可らざると感じたり」とす。本古書には横濱正金銀行ハルビン支店の所藏印押されあり。
「大戰後の世界と日本」(一九二〇)、三十七八年役までは所謂國是なるものが嚴然として存在したるが、最近は沒國是の日本となりたりと嘆く。
「Japanese American Relations」(一九二二)、米國マクミラン社刊にて、「大戰後の世界と日本」のうち日米關係に關する部分のみを英譯したるものなり。
「國民自覺論」(一九二三)、麻布連隊區司令官の催しに於ける講演記録なり。


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