文語日誌
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文語日誌(平成二十二年九月某日)
     
                  土屋 博

徳富蘇峰の主要著作に就いて(序)
平成二十二年九月某日
      


 
徳富一郎(文久三年―昭和三十二年(一八六三―一九五七))は、明治、大正、昭和を通じてオピニオン・リーダーとして活躍したる言論界の巨人なりき。「蘇峰」なる號は故郷の阿蘇に由來す。弟は徳富蘆花なり。
蘇峰は、肥後の國水俣に生を享け、數へ年四歳にして唐詩を暗誦し五歳にして大學の素讀を受く。水俣にては元田永孚ながざね(明治天皇の師)、兼坂止水の私塾に學びたり。十一歳にして熊本洋學校に入學す。十四歳にて上京し、東京英語學校(第一高等學校の前身)に入學す。同級に内村鑑三、新渡戸稻造あり。しかれども、官學に飽き足らず京都に奔り、同志社にて新島襄の薫陶を受く。十八歳にて歸郷し、二十歳にして大江義塾を開けり。論文「將來の日本」にて論壇に登場し、平民主義を鼓吹す。二十五歳にして民友社を創立し、雜誌「國民之友」を主宰す。二十八歳にして「國民新聞」を發刊し、社長兼主筆となり、多くの讀者を獲得す。國木田独歩、徳富蘆花、山路愛山、深井英五らは民友社社員たりき。四十三歳にして日露戰爭後のポーツマス講和條約に贊成の立場を表明したる為、日比谷燒打ち事件に遭ふ。
大正七年よりは、「近世日本國民史」の新聞連載を始む。昭和十六年の大東亞戰爭開戰に當り宣戰の詔稿を添削す。昭和十七年には大日本文學報國會の會長に就任し、翌年には文化勳章を受く。戰後は戰犯容疑を受け、意見發表も禁ぜらるるも、信念を曲げず、博覽強記ぶりは衰ふることなく、ライフワークの「近世日本國民史」百卷を遂に完結す。蘇峰の著作、公刊五百冊を越え、以下、小生の藏書よりその主要を紹介せむ。


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