文語日誌(平成二十二年六月某日)
土屋 博
三宅雪嶺の主要著作に就いて(中)
平成二十二年六月某日
「出發の準備」(一九一九)は、人生の旅に出發せんとする學生に與ふるものにして雜誌「中學世界」に連載せられたるもの。「人は生れて死ぬまで絶えず相反する忠告を受く。一方で從順しくせよと云へば他の一方では活發なれと云ひ、一方で勉強せよと云へば一方では能く遊べと云ふ。之を決するの良否で人物の優劣が決まる」と説く。
「志向一致を計れ」(一九一九)は、「將に社會に進み出でんとする世の少青年諸子」に向けて、「自分で何事をか志したならば必ずこれを行はなければならず、行はぬのは志し方が誤つたか、氣力が缺乏したか、一を免れぬ。」とし、一旦「志したならば著手すべき」にて、「人の好まぬところ、人の思ひ及ばぬところに樣々の道があり、これを切り開いて行くところに愉快がある」と教ふ。
「獨言對話」(一九一九)は、「世の中」の續編的なるもの。たとへば「立體としての人生」にては、生命の長さ(壽命)は延ばせぬが、幅・厚さは自分の志を以て延ばし得とす。また、明治の幾年かまでは「海陸軍」と稱しをりしが、西南戰役後陸軍が力を増し、遂に「陸海軍」と呼ばしむるに至り、西郷侯は陸軍中將より海軍に轉じて大將となりしこと、また、露西亞革命の電報來たりしとき、本野外相(直前は駐露西亞大使)は、全くこれを信ぜず、斷じてそのことは無き旨明言せしことなど、興味深き插話を含む。
「三宅雪嶺 青年訓」(一九二〇)は、青年必攜の書にて、たとへば「吾人は無名の善行を心掛けねばならぬ」、「非常の天才ならざれば年限を活用せずして何をか成し遂げん」との名訓竝ぶ。
雜誌「我觀」第一號(一九二三)は、雪嶺創刊になるものにて、關東大震災直後の状況をつぶさに報告せり。被害の大關ともいふべきは日本橋丸善と新しき酒匂川鐵橋なりしこと、某省は役人悉く家路に就かむと遁走し、僅かに數名の給仕小使が若干の書類を搬出せしこと、等紹介す。
「新日本史」(一九二六)は、萬朝報社の刊行せる明治・大正の政治・外交・財政・教育等分野別の全四卷、五千頁に及ぶ大著なり。加ふるに別卷として浩瀚なる人名辭典あり。筆を執る者實に八十名、悉く斯界の權威なり。雪嶺は單獨の監修者にして、總説を執筆す。
「雪嶺名作選集」(一九二六)は、世の中、小紙庫、續世の中、想痕、偉人の跡、理想追隨家よりの拔粹を收録す。
「世渡りの道」(一九二八)は、一生は短き故、事業を成すには力を集中し之を他に分つべからずと教ふ。
「明治大正史」全十五卷(一九二九―三〇)は、實業之世界社刊行の不朽の名著にて、國勢篇五卷、産業篇四卷、會社篇三卷、人物篇三卷より成る。監修者は三宅雪嶺、澁澤榮一、鎌田榮吉の三名なり。就中三卷に亙る人物篇は明治、大正期に活躍したる日本を代表せる重要人物數千名を收め、近年五萬圓にて復刻せらるるほどの價値ありて重寶なるものなり。
「改造社 現代日本文學大系 五 三宅雪嶺集」(一九三一)は、雪嶺の代表的著作の多くを收録す。雪嶺の世界を鳥瞰するに恰好ゆゑ、古書店で見掛けば購入を推獎す。
「一地點より」(一九三三)は、帝國日日新聞に隔日で連載したるコラム記事にして、周圍の變遷を川端柳の水の流れを見て暮らすが如く定點觀測するものなり。(以後、昭和二十年十二月まで連載の續編は續きに續き、雪嶺の眺めたる現代歴史を臨場感を持ちつつ追體驗可能なり。)
「隔日隨想」(一九三四)は、「一地點より」の續編にして、たとへば「薩摩を先頭にした維新の機運は西郷で幕を開き東郷で幕を閉ぢた」は氣の利きたる表現なり。
「二日一言」(一九三五)は「隔日隨想」の續編なり。「自分は餘り頼山陽に傾倒しないけれど、祖父が京都で山陽に師事し、父が江戸の昌平黌で三樹三郎と友とし交はつたので、頼家に多少の敬意を拂ふに傾く」と述ぶ。
「初臺雜記」(一九三六)は「二日一言」の續編なり。(「初臺」とあるは、雪嶺の居住地なり。)「大學の教育」にては、四面楚歌の状況に陷りし美濃部達吉教授を友人も學生も手助けせぬのは大學教育に效果なかりし例と指摘す。
「人の行路」(一九三七)は、雜誌「實業之世界」に掲載したる長文を纏めしものなり。
「面白くならう」(一九三八)は「初臺雜記」の續編なり。「面白く」の用語は、日の神の天岩屋戸を出でたまひ、衆の歌ひ舞ひ、「あはれ、あな面白し」と言ひ囃せるに由來す。
「祖國の姿」(一九三八)は、日本の如く久しくして愈々熟するを世界的に稀有の例とす。
「戰爭と生活」(一九三八)は、「面白くならう」の續編なり。「南京の最期」にては、郎黨には死ぬまで戰はしめ自らは飄然と逃げたる蒋介石を非難す。
「武將論」(一九三八)は、戰國時代の武將を取り擧ぐるにあらずして、明治以後の軍人を扱ふ。「西郷兄弟は富貴利達に對する執著心少なし。從道は首相にならうと思へば爲れたのに敢へて爲らず」とす。
「英雄論」(一九三九)は、英雄に重きを置くカーライルと然らざるスペンサーを對照的な考えと位置づけり。
「人物論」(一九三九)は、偉人大西郷、小論伊藤伯、我觀大隈伯等の論文より成る。
「生活の磨き」(一九三九)は、如何に生活を磨き、他の動物の全く及びもつかぬ所に到るべきかを論ず。
「事變最中」(一九三九)は、「戰爭と生活」の續編なり。福澤諭吉米國を訪問して華盛頓の子孫の消息を不明としたるは淺薄なる旅行者の誤解に過ぎず、現に最近英國の皇帝陛下米國を御訪問の折には華盛頓の血縁者も大切に遇せられたりとす。
「變革雜感」(一九四〇)は、「事變最中」の續編なり。「輿望を荷ふ近衞公」にては、我が國の歴史上近衞公ほど衆望の集まれるはなかりき、と指摘す。
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