文語日誌
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文語日誌(平成二十二年四月)
     
                  土屋 博

新渡戸稻造博士の主要著作に就いて
平成二十二年四月某日
      


 
新渡戸稻造(文久二年―昭和八年(一八六二―一九三三))は南部藩士の三男として盛岡に生まれ、上京後、官立の東京外國語學校にて英語を學ぶ。札幌農學校の二期生となり(同級に内村鑑三)、卒業後は開拓使御用係となれども、學問への情熱絶ち難く、再び上京し東京大學(いまだ帝國大學てふ名稱にはあらず)に入學す。外山正一校長の面接時には、「われ太平洋の架け橋とならむ」との抱負を熱く語りき。
米國・獨逸への留學後、札幌農學校教授となりしが、病氣のため轉地療養を餘儀なくされ、囘復後は、後藤新平に請はれ臺灣總督府の殖産局長に就任し、臺灣の砂糖産業の振興に貢獻す。併せて京都帝國大學法科大學教授の職も兼ぬ。加之、第一高等學校校長に轉じ、東京女子大學學長も務め、教育者としての名聲大いに高まる。
その後、國際聯盟事務次長として七年間をロンドン及びジュネーヴに暮らす。歸國後は、毎日新聞の特別顧問、太平洋委員會理事長、貴族院議員などを歴任す。
農學・法學二つの博士號を有する學者・教育者にして、執筆家、國際公務員、政治家など幾つもの顏を持ち、今日言ふところのマルチ人間のはしりとや言ふべき。
新渡戸の主要著作は、教文館より刊行の「新渡戸稻造全集」(全二十三卷、うち六卷は英文)に收録せられありとは言へ、單行本の味はひはまた格別なるゆゑ、小生の藏書よりその代表的なるもの幾つかを茲にご紹介せんとす。
「農業本論」(一八九八)は、轉地療養中に書き上げられし論文なり。冒頭には『辱けなく高恩を追慕し亡母の紀念に此の書を捧ぐ』と記せり。
「農業發達史」(一八九八)は、札幌農學校にての講義録をまとめたるもの。滅多に古書市場に出囘らぬゆゑ、稀少性は高く、亞細亞經濟研究所のホームページにては、矢内原忠雄氏より寄贈を受けたる本書の寫眞を「貴重書コレクション」として特掲す。
「英文武士道」(一九〇〇)は、新渡戸の代表的著作と言ふべし。セオドア・ルーズベルトが讀みて感銘を受け數十部を購入し知合ひに配りしは有名なり。小生も外國から要人のミッションが訪日の際にはオリエンテーションの教材として本書を活用せり。
「歸雁の蘆」(一九〇七)は、新渡戸が米國ジョンズ・ホプキンス大學、獨逸ボン、ベルリン、ハレ大學等に留學せし折の見聞録にして、海外留學を控ふる現代の若者に讀みて教ふるところ多々あらん。
「邦譯武士道」(一九〇八)は、櫻井鷗村氏の翻譯によるもの。戰後は矢内原忠雄氏譯の岩波文庫が出囘れるところなり。
「英文隨想録」(一九〇九)は、「英文新誌」に連載されしものなり。(翻譯版は櫻井氏の譯)
「ファウスト物語」(一九一〇)は、三方金の美しき裝釘にて、一高における新渡戸の講義をまとめしものなり。
「修養」(一九一一)は、雜誌「實業の日本」に連載せしものにて、「五十の坂を越え嘗て見聞せしことを青年に分たん」との思ひにより執筆されしもの。大學の教授が勤勞青年向けの文章を發表することには批判もありし時代と言ふ。
「世渡りの道」(一九一二)は、「修養」の續編にして、主として他人との關係につき考察するものなり。
「奮鬪力の養成」(一九一三)は、新渡戸の不承認のまま刊行されしものなるも、他では滅多に聞けぬ講演内容も含み貴重。たとへば、第十六章「余俠客傳を讀むの感想」にては、「強者を挫きて弱者を扶くるといふ義 俠心は、或る意味からいふと社會道徳の基本にして、現代社會に最も缺如たるものは此精神である。」、「僕は自分の從弟の子供を貰つて育て今米國に遣つて居るが、曾てかういふ事を話して聞かせた。男子は凡て弱い者に同情してやらねばならぬ。學校へ行つて六ケしい事は覺えなくとも好い。唯弱い者をいぢめたり罪もない者を苦しめたりする者があつたら加勢して遣れ、と」。
「隨感録」(一九一三)は、東京毎日新聞論壇欄に掲載せしもの。たとへば、「學俗接近の急務」においては日本の教育上の最大缺點として、「學校を卒業すると同時に教育と絶縁してしまふ」弊害を指摘す。
「折にふれ」(一九一四)は翻譯版「隨想録」の銅版が摩滅せるため、翻譯者の櫻井氏が改譯、再編集す。
「人生雜感」(一九一五)は、普連土學園での宗教説話集なり。
「一日一言」(一九一五)は、その日その日の教訓になる格言を紹介し精神の食糧とせんとするもの。名著の譽高く、余の手許の古書數册にはいづれも愛讀の形跡あり。
「自警」(一九一六)は、日々の心得、平生の自戒に就き述べしものなり。
「婦人に勸めて」(一九一七)は、「婦人畫報」に連載せしものにて平易なる表現を心掛けんとしたるもの。
「一人の女」(一九一九)は、「婦人世界」に連載せしものにて、「泥中の蓮にも譬ふべき婦人」など幾つかの實話を紹介す。
「東西相觸れて」(一九二八)は、國際聯盟事務次長時代の土産話にて、就中哲人ベルグソンやキュリー夫人との對話内容は興味深し。
「偉人群像」(一九三一)は、毎日新聞に連載せしもの。たとへば、「乃木將軍の思ひ出」は、臺灣時代に新渡戸の職場に態々足を運ばれし將軍の樣子や、乃木が學習院院長時代に新渡戸が講演者として招かれた際に將軍が壇上に驅寄り感謝の意を表されしこと、新渡戸が一高校長の時代に乃木が寮を見學に來られた際の插話、さらに、新渡戸が私邸に乃木の來駕を仰いだ際、揮毫を所望したるところ、「對月有感」と題し、「かたらじとおもふこころもさやかなる 月にはえこそかくさざりけれ」なる書を頂く話など、興味深し。
「内觀外望」(一九三三)は、早稻田大學での講演録。「活眼ある讀者は我輩の意圖するところを洞察せられるであらう」と序文に述べられしは意味深長なり。
「西洋の事情と思想」(一九三四)は、死後の刊行にて、生前の早稻田大學での講演等を收録。
「人生讀本」(一九三四)は、「實業之日本」誌に掲載せしもの。
「英文 編集餘録 上下」(一九三八)は、死後にメアリー夫人〔日本名萬里子〕が編纂したるものにて、大阪英文毎日への日々の英文コラムを集めしものなり。日本語では記し難き軍部への批判なども含み、晩年の新渡戸の考への本音をのぞき得べし。
「新渡戸稻造文集」(一九三六)は、新渡戸の全著作のエッセンスを纏めしものなるが、特に追加して蒐集されたる「一高倫理講話」は未公開の學生ノートからのものにて一高校長時代の新渡戸の姿を髣髴とさするものなり。


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