文語日誌
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文語日誌(平成二十二年二月二十六日)
     
                  土屋 博

高橋是清翁の主要著作に就いて
平成二十二年二月二十六日(金)
      


 
晩香坡バンクーバー五輪にて國民の期待を一身に擔ひし淺田眞央選手が銀メダルを獲得せる日、實はこの日、二月二十六日は二・二・六事件の勃發せる日にして、かの高橋是清翁の命日なり。
波瀾萬丈の高橋是清翁(安政元年〜昭和十一年(一八五四〜一九三六))の生涯を振返るは、現代の日本人にとりて生きたる歴史を學ぶが如し。
是清翁は、一八五四年に幕府御用繪師の子として生まるゝも、生後間もなく仙臺藩の足輕の養子となりたり。幼少の砌よりヘボンの私塾にて英語を學ぶ。米國に留學するも騙されて一時は奴隸の身となるなど辛酸を嘗む。
明治元年に歸國後は英語學校教師となれり。教へ子に正岡子規、秋山眞之などあり。その後官僚に轉じ、初代商標登録所長〔百年餘りを隔てて小生も同じ職務を經驗せるの奇縁あり。〕、特許廳長官を歴任し、我が國の知的所有權制度の基礎を築ける大功を擧ぐ。
その後、祕露ペルーにて銀鑛山の開發事業に關はるも、廢坑を摑まされ失敗す。歸國後は日本銀行に入行し、日露戰爭時には戰費調達のため戰時外債を公募すべく英國に赴き、所期の成果を擧げぬ。やがて日銀總裁となり、後年は大藏大臣に推擧せらるゝこと六囘に及ぶ。原敬首相暗殺直後には内閣總理大臣にも就任せり。
國民からは「達磨さん」とあまねく親しまれしところ、惜しくも昭和十一年(一九三六)に兇彈に殪る。
是清翁自身の執筆乃至口述せし著作を讀むは、あたかも翁の謦咳に接する心地こそすれ。古臭さを感じさすること稀にして、讀後感は爽やかなり。
「立身の徑路」(一九一二)は、國會圖書館の近代デジタルライブラリイにて無料で閲覽・ダウンロオド可能なり。近き將來に有料化されぬとも限らぬゆゑ、今のうちにご覽あれ。
「是清翁一代記」上下(一九二九)は朝日新聞社の刊行にして、後述の「自傳」よりも寫眞、情報量ともに多く、出來榮えは秀逸と覺ゆ。
「高橋是清大論集」(一九三一)は、政界入り以降の演説等を收集せしものなり。
「議會を通じて國寶高橋是清の經綸 前篇」(一九三四)は、議會での答辯を蒐集したるものゆゑ、格別面白くもなけれど貴重なる記録なり。後篇は刊行に至らずに終はりし模樣。
「處世一家言」(一九三五)は、分りやすき表現による人生訓にして萬人に向く。
「高橋是清自傳」(一九三六)は、中公文庫にも收録せられ、今日において入手が最も容易なる是清の代表的著作と言ふべし。
「隨想録」(一九三六)は、政論から人生論まで幅廣き分野に亙りて滋味豐かなり。
「經濟論」(一九三六)は、日本のケインズと稱さるる是清の論考にてなほ色褪することなし。
「是清翁遺訓」(一九三六)は、逝去直後に緊急の出版となりしものなり。
思へば、今を去ること八年前、小生が英文雜誌の編集長を兼ねし折り、日銀出身の故吉野俊彦氏に是清につき論文の執筆を依頼し快諾を得たりしことは忘れ難し。


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