文語日誌(平成二十二年六月四日)
岡本光加里
一葉の舊居
平成二十二年六月四日
大學の授業をはりしのちのたそかれ時に、一葉が舊居をたづねんとて、本郷菊坂下を歩きたり。高校の恩師ともにありきたまひぬ。
茗荷谷驛裏のスーパーマーケツトにてビスケツトなど買ひ、蟲養ひしたるのち、丸ノ内線後樂園驛にて降りしは午後七時前なりき。
夕風に吹かれて歩めば、春とはよもやいふべくもあらねど、さりとて夏とも言ひがたき心地よさに、道行く人の顏も心持ゆるびたるやうに見えたり。まして我、敬愛する師と一葉の家をたづぬとあれば、その嬉しさたるやいはむかたもなくて、春日通を渡る足取りもおのづから輕し。
こんにやくえんまを右に折れ、白山通を横切り、菊坂下へと著きぬ。文京區親切にも案内板を置きたれば、あたり暗きにまなこ細めて見るに、いはく、一葉の通ひし質屋、啄木の下宿せし家、逍遙の舊宅もここ菊坂にありしとぞ。菊坂恐るべしとて感歎しつつ歩みゆけば、坂を登ることいくばくもなくして左手に見えたるこそ、一葉ゆかりの質屋なれ。右を見やりたれば、小さき階段ありて、小路へ下りゆくと見ゆ。のぞき見るに、小路を挾むはみな民家なれば、かまへてしづかに階段を降りぬ。
降りたる先は別天地なりき。およそ世の流れより取り殘されて、屋根の黒き杉板にて葺かれたるさへあり。路地にひまなく鉢を竝べて、ひしめく家々一つとして花を缺くものなく、蝉もいまだ鳴きいださぬに、風鈴の音あなたこなたより響きて、人々の優しき心ばへしのばれぬ。猫の多きところと覺えて、猫の聲途切れがちに聞こゆるもこよなかりけり。夢にも思はざりし町のすがたに我、半ば呆然としてゐたれば、師のいと懷かしげにおほせらるるやうには、昭和三十年代の東京の風情かくありけむとぞ。
さて八時を過ぎぬ。おもしろき町夢見心地にて歩きたるうちに、啄木、逍遙ゆかりの地のみならで、案内板にはなかりし金田一親子の住みたる家さへ見出せり。一葉が家に面すとふ手押しポンプの井戸も見たり。しかれども、井戸のぐるりの家のうちいづれか一葉の家ならん、あたり暗きほどに定かならず。かうべをめぐらすること十分にも及べど、漏れくる家族團欒の聲を亂さんもはばかられたれば、つひに諦めぬ。
さながら狐ならで猫にでもつままれたるやうなれど、後樂園驛へ歩む心は滿てり。本意は遂げざりしかど、かくのごとくゆかしき町見るを得たるに、何の不足をかいはんや。げに樂しき散歩なりき。
さはいへど、師とは次こそはと約しつ。。
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