文語日誌
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文語日誌(平成二十三年
月)
     
                  
中島八十一

水深二千メートルの水底
平成二十三年二月二十一日




 福島県を太平洋岸より順に浜通り、中通り、会津の三つに区分す。浜通りの中心は平、小名浜にて、これらが寄りていわき市を構成す。午後にいわきの駅を降り立ちて、すでに雪の降り荒ぶ中、海辺の宿舎に着きたれば、残る時間をここに拠る他なす術無し。かつて塩屋埼灯台の霧笛旅情を誘ふも昨年廃止となりたるに、強風に綿雪のさらに千切れ水平に暗闇の彼方に飛び去る景色のみ見ゆる夜となれり。
 翌朝一転明るく晴れ、二階の宿の間より見る人の背丈ほどに育ちたる松の植込み幅十メートルばかり浜辺に沿ひて延々と続き、薄く雪が積もりたる砂浜並行して続き、その彼方に外海の大きなる波砕け散り、その音まで伝へ来れり。木々の枝揺れ、鴎の飛翔姿態を変ふること忙しきに、なほ強風吹くを見るも昨夜ほどのことなし。
 朝食後ややありて、海の様如何と思ひ付き、オーバーコート、マフラー、手袋、帽子、防寒装備すべて身に付け部屋を出づ。積雪靴の高さに満たず、慎重に歩まば靴に雪入りて靴下濡らす恐れなかるべし。松の植込みに設けし細き道を浜辺に抜けむとせしその折りに、先の砂地に輝くもの数片見付けたり。雪と砂を踏みしめそろりと歩み寄らば、そは正体割れし鏡にて、大なるも掌よりやや小さし。いづれも鏡面を上にし雪中にわづかに沈みたるに鏡面に積もる雪なし、由って遠き所より輝くに気付きたり。
 鏡の中覗き込みたるに来し方経験せざる不可思議なる光景現出せり。大きなる積雲数多くゆるゆると鏡の中を流れ行き、目を空に転ずれば同じ積雲の青空を流れ行く。空の雲高度いくらを流るるや、千メートル或いは二千メートルと推量す。今一度鏡の中を覗きたれば水深二千メートルの青き水底を積雲流れ行く。空の雲に風の音伴ふに、鏡の中に音らしき音いささかも聞こゆること無し。かつてかかる深き水底直接覗きたること他人より聞かざれば、紛ふことなき超深度の底かかる有り様にて覗くとは想像だにせず。先立つ秋にはすぢ雲天高く覆ひ、水深一万メートルの水底をも見たるべし。
追記。この一文を記したる直後に東日本大震災生じ、いわき市壊滅す。被災せし人々の受く艱難を語るに如何なる言葉もなし。御魂にありても生き延びたる人々にもただ安かれとひたすら祈るのみ。





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