文語日誌(平成二十一年十月)
加藤 淳平
平成二十一年十月某日
北京に在り。人を誘ひて頤和園に遊覽す。稍汗ばむ程の陽光に惠まれたる晴天にて、週末なれば中國人、外國人入り交じりたる觀光客ら、園内に群がる。處々に日本語を聽く。
頤和園は北京西北郊の名園にして、元は乾隆帝の離宮なりしが、第二次阿片戰爭に際し、北京に侵攻せる英佛軍の破壞・略奪を受け、廢園となりしを、かの惡名高き西太后の隱居處とて、復舊・擴大せられたる別墅なり。その建設に、軍艦購入に豫定せられたる海軍豫算の流用せられ、日清戰爭に於て、清の北洋艦隊の、日本海軍に敗北せる原因となりしは周知のことならむ。
頤和園の中心は昆明湖なる人工湖なり。昆明湖なる名は、今の雲南省の省都昆明の南に廣がる大湖に因りて名附く。漢の武帝、雲南を征服せんと兵を進むるに先立ち、首都近くに、滿々と水を湛へたる巨大なる人工湖を掘鑿し、軍船を浮べて、水軍の操練を行ひし史實あり。即ち清の官僚等、西太后の意を迎へんため、海軍經費を頤和園建設に流用せるも、海軍費なる名目を守らんため、海軍學堂建設の名目を設け、昆明湖を水軍操練のための湖水とせるなり。清の官僚等の狡智(猿智慧)斯くの如し。されど往時の歐州の絶對君主なりせば、豫算の使途は意の如くなりき。君主の命あらば、輩下の者は唯々諾々と命に從ふを常とせり。豈清の官僚の如き狡智を用ゐる要ありしや。現代にありても、我等日本の官僚、政治家より筋違ひの出費を強制せらるる時、同樣の狡智を働かせ、建前と實際の辻褄合はせを行ふに非ずや。歐米と異なり、日本・中國に共通せる文化・慣行なるべし。
日本にて西太后と稱せらるる人物は、現代中國にては慈禧太后と呼ばる。西太后なる稱號は、夫帝、咸豐帝の死後、宮殿の東西に居住せる東西兩太后の竝び立ちて政務を執行せる時代の稱號なり。中國古來の方位感覺は、東を西より上とし、咸豐帝の皇后なりし東太后は、貴妃に過ぎざりし西太后より、地位・實權ともに上位にありき。西太后の「西太后」となりしは、咸豐帝の死後、所生の同治帝、生母に皇太后の尊號を贈りたる故なり。東太后存命中は一歩を讓りたる地位にありし西太后の、清國の實權を掌握せるは、その死後なりしかば、清の最末期の最高實力者たりし女性を「西太后」と呼稱するは適當ならざるも、ここでは日本の慣行に異議を唱へず、「西太后」と記す。
清に嚴密なる后妃制度あり。上より皇后一名、皇貴妃一名、貴妃二名以下、定員、待遇、嚴密に定まる。皇后の地位は絶對にして、清を通じ最も全權を振ひたる乾隆帝と雖も皇后を廢位する能はざりき。后妃の選定、亦嚴格なる「選秀女」制度に基づき、旗人の子女より、能力・性格・家柄を勘案して序列附けらる。旗人は清朝獨特の制度にして、日本の徳川幕府の旗本の如き世襲の武人貴族なり。皇帝は滿州族なれど、旗人には滿州族、モンゴル族、漢族あり。但し最高位の皇后は、滿州族とモンゴル族のみにて、漢族旗人子女選定の例無し。「選秀女」に家柄も考慮せらるれど、滿州族上層旗人の子女は、中國史上例を擧ぐるに事缺かざる外戚の專横を警戒し、多く忌避せらる。
咸豐帝の后妃を選定せる「選秀女」の第一位にして、帝の存命中唯一の皇后たりし東太后は、西太后と同じく滿州族中層旗人の出身、性謙讓にして、優秀なる女性なりき。若き日の西太后は美人にして、咸豐帝の寵を得て唯一の男兒を設けたるに因り、皇后に次ぐ貴妃の地位に昇りしも、「選秀女」の序列は第四位なりき。獨特の政治的勘に惠まれ、書を讀むを愛する勉強家にして、性は善良なれど(巷間東太后毒殺の噂ありしも、俗説に過ぎず)、容易に感情を激し、視野は狹窄にして局限せられたる宮廷の小社會を出でず。漢の呂后の殘忍にも、唐の則天武后の淫亂にも無縁なれど、兩者の大度に遙かに及ぶべくも非ず。斯かる凡庸なる女性の清の最高實力者たりしは、中國の悲運と言はざるを得ず。
頤和園の樂しみは、昆明湖の北岸に續く長廊の散策なり。長廊より望む昆明湖は、一時水涸れて、處々に泥土を露呈せり。されど今はオリンピックの爲、水の潤澤に供給せられたるにや、湖水に水は漲り、秋の柔らかなる陽光を浴びて遊覽船往來す。長廊を散策する我が頬に、湖水をわたる微風の何たる心地よさぞ。我は身勝手なる一觀光客なれば、頤和園の斯くも美しき庭園を唯々悦び、西太后の海軍建設費を費消して日清戰爭に敗れ、列強による中國の蠶食・半植民地化と億萬の中國人の苦難を齎したる歴史は、遙かに霞む山の遠きを覺ゆるのみ。
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