文語日誌
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文語日誌(平成二十六年五月二十六日(月)晴)
     
                  市 川 浩

法律と言語
平成二十六年五月二十六日(月)晴




 世に法の支配といひ、法律に萬能の論戰後特に有力なり。而して法律は言語により始めてその效力を發するが故に、すべてを律する能はざること「法網」の語克くその實態を表はす。この法網の及ばざるを補ふに道義を以てするを、法の支配の神髓とすべきに、これを言語によりて行はむとするの弊漸く甚しと感ずるは、我が法律知識の缺如なりや。忸怩たるも敢て言擧げせむとす。
 すべての法律はその國の憲法に由來すること明かなれば、各種の法律行動に對する「憲法違反」の指摘枚擧に遑なきは當然なるも、その多くが憲法の言語表現に對する解釋に基づく傾向あり。
一つに閣僚の神社參拜あり。問題の條文は第二十條第三項「國及びその機關は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とす。改正前の大日本帝國憲法にはこの條なく、英文には refrain の語を用ゐ、これを敢て直譯せば「國及びその機關は、宗教教育又はその他の宗教的活動はこれを自肅するものとす」となり、その意味する所大いに異るを見る。無論手續的には和文憲法の文言に從ふべくも、閣僚己が職務に就任、獻身の意を神前に告げ參らするを、いかなる宗教的活動をも禁ずる憲法に違反といふは、言語のみによる法の適用にして、寧ろ國の文化を前提とする憲法に違反すといふべし。況して國のために戰陣に散りたる英靈に感謝の信を捧げ平和を誓ふに於てをや。
 最近の集團的自衞權の行使容認に向けての論爭、贊成の側は謂はゆる「グレイゾーン」事態への對應の必要性を論じ、反對の側は好戰的國家を目指すものと斷じて討論噛合はず、國論を二分するの觀あるもその實不毛の議論なるを憂ふ。
我が國政府の見解はこれまで「集團的自衞權は保持するも憲法上行使し得ず」とし、同盟國が攻撃せらるとも、我に攻撃なければ共に應戰する能はざるグレイゾーンの根據たり。一方國聯憲章にはその第七章第五十一條に「本憲章は加盟國に對し武力攻撃のある時、安全保障理事會が國際的平和と安全を維持するに必要の對策を取るまでの間、固有の權利たる個別的又は集團的自衞を害ふものにあらず」と集團的自衞を個別的自衞と同等の固有の權利として認む。されば此にいふ集團的自衞とは自國を同盟國と共に武力攻撃より護るを意味し、一朝我が國有事の際、同盟國即ち米軍と共に防衞行動を取るは正しく政府の禁ずる集團的自衞ならずや。想起す、自衞隊草創期、その任務は米軍來援迄の武力防衞なりとせる論ありたるを。
 更に憲法の何處を見るも個別的自衞と集團的自衞とを個別に規定する表現無之、所詮從來の政府見解は「憲法上」と言ひつゝ、憲法にその根據を見出し得ざるのみならず、日米安保條約そのものの效果を大きく減ずる可能性すら潛在すと言はざるを得ず。行使容認派反對派は共にこの問題を正面より取上げ、内容ある議論の展開あるを期待す。
 


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