文語日誌
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文語日誌(平成二十四年七月)
     
                  市 川 浩

安全性  
平成二十四年七月二十九日(日)晴 




 昨今、原子爐の再稼働竝びに米軍最新軍用機オスプレイの沖繩配備をめぐり、その安全性をめぐり國論對立す。メディア連日これを取上げ、一方、毎週金曜日に行はるゝ首相官邸前の反對デモますます熾さかんなりと云々。
被害地域の受けたる物的、心理的傷害を考ふれば、反原發、反基地の動向十分理解し得るも、今囘の原發事故、部外の愚敢て按ずるに、地震、津波によること固より明らかなりと雖も、分解して考ふれば、冷却及び受電設備系統の機能喪失が被害の原因にして、寧ろ規模こそ大なれ、通常事故の範疇に屬するに非ずや。從ひ、安全對策はこの二系統の復元力の増強に最も力を注ぐべきにして、これを安全性の尺度とせば、地震津波對策に比し容易に評價可能して、且は成果も期待し得べく、互ひに合理的なる結論に達せむ。
 但し、安全性、特に工業技術に於ける安全性に關する最近の論議には、永年製鐵現場にて安全確保に努力せる經驗に照し鑑みるに、違和感無きにしもあらず。
 問題は絶對安全への觀念的想定なり。元來工業上の安全に絶對は期待すべからざる事象にして、不測の事態を想定し、如何にこれを防ぎ、萬一發生の場合には、如何に損害を最小限に止め、改善、復舊するか、二十四時間三百六十五日不斷の努力を肝要とす。小さき事故も見逃さず、原因竝びに對策を洩れなく公表し、それらの情報を共有せば、最初はメディア得たりと危險性を喧傳すらむも、都度誠實に説明を重ぬれば、社會に正しき理解も廣がらむ。
 然るにかかる努力を輕視したるにや、或いは原發の安全を危ぶむ聲に屈したるにや、謂はゆる安全神話とて、絶對安全を暗示するに至る。されど一たび絶對安全を前提とせば、如何なる事故もあり得ずとし、かくして日常發生する事故、故障は次第に報告の對象より外れ、その對策を含め世に知られず。
 これに類する最近の事例として學校に於けるいぢめ問題あり。いぢめは絶對不可とする餘り、いぢめあるべからずとなり、先生いぢめを認むる能はず。遂に受難生徒の自殺に至るも、なほ喧嘩、からかひと判斷逃避して、後日に問題發覺して、學校當局窮地に陷る例多し。
 而して虚構の安全神話一たび「崩潰」するや、次は絶對危險、脱原發となり、今や原子力發電の資源的意義など論ずるさへ憚らるゝ有樣、この儘國のエネルギー政策決定となるを憂慮す。日本人のかかる單純なる思考囘路、これを要するに面倒なる多面的思考を囘避し、安易に「絶對」に依存を求むるものにして、先の大戰に於ける「必勝の信念」、戰後の「改革」志向など、結局「神風」や「ユートピア」を願ふ觀念的思考に連なりをり。
 されど、かかる單純思考必ずしも我が國の歴史を貫通するものに非ず。有史以來、先人祖先の傳へを重んじ、智慧と勇氣を以て創意工夫を繰返し、地震、津波は無論、天候不順による凶作、兵亂による荒廢など多くの災害を克服し來れり。げに「絶對」は人間必ず死するとのみ心得べし。


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