文語日誌
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文語日誌(平成二十三年十一月)
     
                  市 川 浩

落 語  
平成二十三年十一月二十五日(日)晴 




 吾が落語、それも謂はゆる古典落語との遭遇は學生時代「落語大學」なる催しありて垣間見たるを嚆矢とす。學内にての催しとて、口演に先立ち、國史や佛文學の先生より、江戸時代に於ける落語の役割やフランス小話の紹介ありて、いよいよ最初に高座に上りたるは三笑亭可樂師匠、「らくだ」を演ず。次いで古今亭志ん生、三遊亭圓生兩師匠による「子別れ」の上下を聽きたり。何れも長篇にて普段ラジオなどにては部分的にのみ聽く噺なるを一切省略なしに聞きたる感動、六十年を歴て鮮やかに甦るを覺ゆ。
 當時は敗戰後未だ戰火の餘燼ある中に能、歌舞伎、文樂など我が國文化の存續危ぶまるれば、これを惜しみて學生割引にてこれらの藝能を觀劇すること 屢なるも落語はラジオにて聞く程度にてありけるを、落語大學を機會に大いに古典落語にも親しむ。
 數多ある演目の中に、信州の草原にて人を呑込み蛇腹大いに膨らめる大蛇、蛇眼草らしき草を むや忽ちその膨らみの消ゆるを見て、その拔群の消化力を蕎麥そば大食おほぐくらべに用立てむとてその草を持ち歸り、當日その草を密かに用ゐるに、この草消化するは人體のみにして蕎麥には非ざりければ、蕎麥が羽織を着てゐたりとの落ちにて了る「そば清」など、構成と話術の一體化せる高座の數々、或いは寄席、また三越落語會などにて名人師匠の藝を堪能す。
 演劇評論家にして落語を愛せる安藤鶴夫先生、若手噺家として柳家小ゑんを有望視するの論を偶々讀みてその名腦裏に殘りたり。そろそろテレビの普及も進みたる頃なるも小ゑんを視ることなく、何時しか勤務も忙しく、また傳統藝術も夫々立派に繁榮するに至れるに心安んずるもあり、寄席劇場を訪るゝことなく歳を過ぐす。
 やがて桂文樂、志ん生なども世を去り、圓生は宮中にて御前落語を勤むるなどなほ活躍を續くるも、落語協會の分裂などありて寂しく逝き、志ん生の息古今亭志ん朝ら古典の孤壘を守る中に、一際花々しき立川談志こそ彼の柳家小ゑんなれと知る。安藤先生、落語家の素質と將來を見拔くこと流石に神の如しと感服す。
 談志昭和四十一年開始のテレビ番組「笑點」にて司會を勤め大いに人氣を得、これを機に落語家のテレビの各種娯樂番組への出演激増す。それと共に、名人落語家の高座獨演を放映する番組は姿を消すに至る。その談志十一月二十一日逝去の報を聞く。氣附けば過去恆例の古典藝能による正月番組も放映なくなり、日本が日本に非ざるの傾向、如何なる感慨をもちて冥途に向ひしや。これも歴史の一齣と思ふぞかなしき。(一部敬稱略)


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