文語日誌
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文語日誌(平成二十三年二月)
     
                  市 川 浩

大相撲
平成二十三年二月二十一日(月)晴




 昭和十年代、我等小學生の大相撲に憧るゝこと今日のプロ野球の如くにして、それぞれ贔屓の力士ありて、そのブロマイドもしくは「メンコ」の類を蒐むる者もまた多かりき。勿論双葉山はたれもが渇仰せるも、先輩格の玉錦の夭折には皆が駭き哀しみ、その原因たる「盲腸炎」を恐る。その他照國、羽黒山、名寄岩、笠置山などの名力士、さらには平幕全勝優勝の出羽湊に人氣集りける中に、同じ横綱の男女川は相撲より寧ろ「筑波嶺の峰より落つる」と骨牌取によく思ひ出しつ。やがて敗戰、双葉山の璽光尊事件あたりより大相撲への興味も薄れ行き、鏡里、吉葉山を最後に、就職の後は大鵬、北の湖の全盛時代も委しくは知らず過ごせり。
 半世紀經ての近ごろ、力士の野球賭博關與を發端に八百長問題に火の手あがり、國技としての存續危しと言ふ。事件の虚實を暫く措き、傳統文化の存續に就き感あり。
 敗戰により、我が傳統文化は、占領軍のみならず我が國人自らによる打撃を受くること明治の廢佛毀釋にも似たるか、然してその態樣は概ね三種類にして、その一は一般の關心薄き中に當事者の信念と氣迫とによりその存續を完うせるものにして、能樂、歌舞伎これなり、その二は法律による破壞にして家族制度、國語表記これなり、その三は歐米の社會思想の誤れる理解に基く衰亡にして初等中等教育、勞使慣行これなり。
 翻りて今日の相撲問題を見るに、上記の如き壓力殆ど無く、スポーツとしての有り樣と共に神事としての一面を保持すべしとするは博く國民の合意あり。即ち戰前も戰後も傳統否定の波を被ること少ければ、卻りて危機意識なきが、問題の本質ならずや。論者多くは「改革」をもつて對處すべしとす。その對象はもはら組織、財政面の如くなるも、その根本に精神文化的の反省、努力無くば、所詮は問題の糊塗に終らむ。特に神事の意義に就き何の教育も受けざる儘に力士となる現状を認識し、單なる座學に止らず、神道實習を課す事等を要す。
 幸ひ大相撲は危機にありながらなほ國技たり。この機を逸せば古來の相撲精神は失はれむ。人は喪ひて初めてその價値を知るといふも、上記その二、その三にて喪はれたるもの、今になりて惜しむ聲起り、復活への努力あるもその效果微々たるのみ。その理由の一つに、これらの傳統實生活に於ける實感既に失はれて久しく、敢て復活の必要性認識せられざるあり。明治以來今日まで數々の傳寶を弊履の如く捨て去り來りて、一つとして復活無きはこの事を示して餘りあり。しかも恰も國運の衰微と軌を一にするが如く見ゆるこそ憂けれ。


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