文語日誌
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文語日誌(平成二十二年四月)
     
                  市 川 浩

書き言葉の獨立
平成二十二年四月十八日(日)晴

 弊社移轉して川崎市の自宅近くに新事務所を構ふ、十二日の事なり。三日後、日本經濟新聞社會部の和歌山氏竝びに寫眞部の井上氏の取材を受く。引越の段ボール未だ解梱進まざるに、應急的に作業場を片附け兩氏を迎ふ。既に月初最初の取材あり、大要の話は畢るも寫眞撮影の關係上是非仕事場での取材をとの事にての訪問なり。
取材二囘に亙りたるは結果的に僥倖なりき。取材を受くるに主として質問に對ふるのみにては、先方の切口よりする塑像些か吾が懷ひに距りあるの感ありたれば、この日は主として思ひの丈を述べて共感を得むと心掛く。
其の最も強調せるは書き言葉の獨立なる概念にして、世上概ね書き言葉は話し言葉の記録を目的に發生したるを以て、前者を後者の後塵に序づるの事情あるも、夫子の言に後生畏るべしとあり、復た荀子は青は藍より出でて藍よりも青しとす。我國字も當初は漢字を、下りては假名を用ゐてひたすら音を寫し來れるを、鎌倉時代の初期ハ行轉呼の音韻の大變動に當り、藤原定家卿遂に文字の發音追隨を絶つ。これ當に書き言葉獨立の嚆矢にして、其の大功「定家假名遣」の細瑕を補うて餘りあり、彼の契沖の偉業もこれを敷衍せるなりと。ここに至り和歌山氏も「音韻遷ると雖も書は不易なり」と大いに納得せられたり。
この一句幸ひに本日附同紙掲載記事に引用せられ、副題にも云ふ「わが戰ひ」の本領を述べて過不足なきを喜べり。惟ふに假名遣をめぐる論爭、明治四十一年森鴎外の「假名遣意見」以來既に百年を閲し、この間或いは利便性を擧げ、或いは内部構造の合理性を比較し、或いは教育に於ける習得の難易を言ひて今なほ決著を見ず。唯これら孰れも音韻との對應を論じて、獨立言語たる書き言葉日本語の表記としての視點寡し。書き言葉日本語の獨立の曉を上述の如く定家假名遣の成立に比定せば、契沖宣長を歴て完成に至れる今日の歴史的假名遣の正統たる事明らかにして論を俟たずと言ふべし。


五月二十二日追記
四月二十日發生せる宮崎縣に於ける口蹄疫猖獗を極はめ、遂に百年の交配を經たる至寶の種牛をも失ふに至ると云々。或る意味天災にして不可抗力的の面あるも、かかる祕寶をむざと感染せしめたるは初動の處置に問題あらずやとの指摘も宜なり。先人の營々たる業績も一瞬に失ふの危險毎に心すべく、況して二千年の歴史ある我が國文化に於てをや。



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