文語日誌
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文語日誌(平成二十二年一月)
     
                  市 川 浩

米内内閣
平成二十二年一月十五日(金)晴




 今より六十五年前昭和十五年のけふ米内内閣發足す。この年は皇紀二千六百年に當るめでたき年なるも、既に支那事變は四年目に入りて泥沼に足を捕られ、「援蒋」を繞り日米の關係も齊はず。最初の當事者たる近衞内閣より、平沼、阿部と内閣が短命に替る間に歐州に第二次世界大戰勃發し、世情大いに變動して我が國朝野を驚かす。當時吾は小學三年生にてあり、かかる大事とは露知らず、たゞ二千六百年の祝賀行事に沸立ちゐたることのみ今に記憶す。
 この時期の年表を見ば、正に狂亂怒濤と言ふべく、局面の轉換迅きこと驚くばかりにて、例へば昭和十二年六月、第一次近衞内閣發足するや一ヵ月後に支那事變起り、同十四年八月「歐州情勢は不可解」と平沼首相に言はしめし獨ソ不可侵條約締結の一週間後にはドイツ軍ポーランドに侵攻す。米内内閣は歐州戰爭には中立を守る前内閣以來の方針を堅持したるが、ドイツ緒戰の成功を見て英米を棄て、ドイツに就くべしとの壓倒的輿論を背景に同年七月、近衞公新政治聯盟の旗揚げに踏切り米内内閣の倒閣を圖るや、政友會、社會大衆黨など既成政黨の解黨參加雪崩を打つが如く相次ぎ、遂に畑陸相の辭任により總辭職となる。この間僅かに六ヵ月、しかも後繼第二次近衞内閣は絶大の人氣の裡に直ちに日獨伊三國同盟を締結す。「米内内閣なほ一年の餘命ありせば」と先帝陛下の御歎ありしも宜なり。
 この一連の國政運營その後の我が國の運命を暗轉せしめたりと批判するは易し。されどもこの教訓を活かさんとするの機運はなはだ薄きを憂ふ。教訓の一は我が國民醇朴を徳とするも熱し易く醒め易き性情往々にして過てる輿論を形成す。爲政者克く輿論の淵源を洞察して國政を誤たざるを要す。教訓の二はアメリカへの對應にして、ペルリの砲艦外交に屈伏の後遺症の故か、特に昭和期に入りてはアメリカの對抗勢力への接近を促すの論特に知識人に於て顯著なり(敢て亡國の謀略とは言はず)。戰前はドイツを、戰後はソ聯を、冷戰後は中國を讚美して止まず。戰後半世紀は知識人による斯かる論調は爲政者「曲學阿世」と退くるによりて大過なかりしは國の幸なり。
 當時國政を擔ひたる先人の後裔近年多く印綬を佩ぶるあり、最近何かといはば「アンケート」による「短期的輿論」を絶對視する報道氾濫し、更には實業の人ら知識人の論を藉りて己が利益を追求せんとするに、御方々今何を思はるゝや、危き哉。


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