文語日誌 |
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文語日誌(平成二十一年六月) 市 川 浩 判官贔屓 平成二十一年六月十二日(金)晴 九郎判官義經は其の生涯樣々の事蹟あり。特に平家追討に拔群の功ありながら、兄頼朝の怒を買ひ、つひに衣川にて三十一歳の生涯を卒ふ。世人頼朝義經の軍功を嫉めりとこれを惡む。果して頼朝骨肉を失ひ、延いて三代にして亡ぶ。 壇の浦にて平家を滅ぼし、義經宗盛を押送して鎌倉に入らんとして果さず、仲介を大江廣元に依頼するの書状を發す。世にこれを腰越状といふ。是に於て義經述ぶるに、「敕宣の御使として朝敵を傾け、抽賞せらるべき所虎口の讒言によりて莫大の勳功を默止せらる」とありて、幼少の頃より「一日片時も安堵の思ひに住せず」、平家一族追討に或いは宇治川に、或いは一ノ谷、屋島、壇の浦にと奮戰を敍し、讀む者をして讚嘆せしむるものあり。然るに頼朝之を納れざるは「虎口の讒言」なるやある。平治の亂後、頼朝平清盛の母池禪尼の計らひにて一死を免るゝの時、既に十四歳にしてその恩を知る。更に頼朝は石橋山にて九死に一生を得、人の情を知る。之を思はば、御年八歳の安徳天皇を助け參らすること頼朝の強き望みなるに、僅かに二歳にて生命永へし弟はその愛を知らざれば、兄の心を察せず、幼帝と寶劍を喪ふの失を思はず、徒らに勳功を誇る。更に後白河院に頼朝追討の院宣を奏請せるの逆ありといふべし。 同樣のこと近くに西郷隆盛あり。若くして薩摩藩主島津齊彬の知遇を受くるも、一橋慶喜の將軍擁立に一旦は敗れ、僧月照と共に薩摩潟に投身して獨り延命す。後江戸城無血開城の偉功を樹つ。然れども征韓論の短あり、また故郷に設立せる私學校生徒の蹶起を制止能はずして、「あたら英雄豪傑どもが禍に遭ひて身を滅し、屍の上に汚名を後世まで遺」すと軍人敕諭に御歎きあるも詮なし。 この兩雄、我等日本人之を景慕すること類を見ず。其の美しき非業の死を哀悼するの念より出づるものにして同胞の敦き心の印なるべし。然りと雖も具眼の士判官贔屓とて寧ろ之を誡む。本日鳩山總務大臣辭任の報を聞く。世上概ね總務相を是とし、辭表受理せる首相を非とす。かんぽの宿に大功あるも、本來祕せらるべき人事消息を暴露するの失もあらずや。人氣に溺れて將來ある政治家の出處に遺憾無きを祈るのみ。 |