文語日誌
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文語日誌(平成二十年十二月)
     
                  市 川 浩

國語教育
平成二十年十二月九日(火)晴




 水村美苗著「日本語が亡びるとき」を讀む。日本の國語教育は近代文學の讀書學習を中心とすべしなど内容まことに首肯せしむるものにて、我等よりかなり若き世代に、斯かる主張をなす識者の出現を喜べり。
 米國に於ける國語(即ち英語)教育に就き同書に曰く、著者の通ひし米國の公立ハイスクールにては、數學、理科等の授業は難易度を自ら選擇し得るも、「國語」、即ち英語の授業のみは學校側主導にて過去の成績を元に上中下三級に編成、各異る教育を課す。上級にはホメロスに遡る古典教育、中級にはシェークスピア、ディケンズを含む英米文學の讀書教育、然るに下級にては、生徒たちと同じき日常生活を平易の文章にて綴りたる誰が書けるとも分かぬ教科書を讀み書きするのみと。
 我豫てより一つの疑問あり。米國のハイスクールの教科に就き仄聞するに、我が國の高等學校に比し必ずしも高度ならず、邦人生徒もしばしば優秀の成績を收むといふ。然るに米國人の大學生となるや忽ち邦人を凌駕し、極めて高き知性、獨創性を發揮す。連日分厚き書物を讀了して翌日の討論に臨むなど到底我が國大學にては實施不可能にして、大學の世界序列も米國の大學上位を獨占す。かくては彼の知的生産物を我は祖述に追はるゝのみ。如何なる事情やあるらむ、全く窺ひ知る能はざりき。
 然るにこの書により永年の疑問氷解せり。英語上級の米人高校生は高等教育を習得するに十分の古典教育を受けて大學に進むが故に、高度の知的訓練にも堪ふるなり。著者を含め邦人は概して下級に編入せらる。その級にては上位を占むるの難きに非ざれば、他の教科と合はせ優秀の成績にて卒業す。歸國して米國に於ける「國語」の古典教育など報ずる機會もなく、「古典教育よりの解放」我が國國語教育方針の柱となりて久し。「何たる勿體なき事をばなし來れるぞ」著者痛恨の叫びなり。
 戰前の教育に於ける舊制高等學校の課程を景慕する人多きも、その基礎に中等教育の充實ありしを言ふ人寡し。米人の慧眼夙にこれを知り、占領するや直ちに我が中等教育を五年制より三三制に分割改變せしむ。中等教育の古典教育による再建實に必須緊要の事なれども、著者折角の警世の言も教育行政への反映望み得べくもなきを憾むのみ。


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