文語日誌 |
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文語日誌(平成二十年三月) 市 川 浩 空中浮揚 二月二十九日(金)晴 我が國有數の行法指導者成瀬雅春尊師の講演を聽く。參加の愛甲次郎師ほか既に行法會得の諸氏、開演前より口々に大いなる氣の生じゐるを稱す。自分は全く「氣」感ずる能はず、講演を表面的に聽くに畢れり。其の中に空中浮揚の話題あり。證據の寫眞配布せられ、當に現代物理學の基本前提たる重力現象を否定するに足るといふべし。憾むらくは當日會場にての浮揚實演なし。固より佛法の玄妙なる敢て窺測すべからざるも、不可思議の現象に思はず妄想を逞しうす。 先づ浮揚の寫眞を見るに其の姿勢前傾なるが鏡に映ず、何かに乘る姿に見ゆ。 次に尊師飯篠長意齋の例を引きて曰く、諸國より長意齋が劍に挑む者數多ありけるに、長意齋熊笹の繁れるが上に席(むしろ)を載せ、其の上に乘り坐して何方よりとも掛りて參れと言ひしかば、皆得打ちも掛らで逃げ歸れるぞと。 又曰く、大氣の層は微小部分にては一樣ならず、或高さに密なる層あり、浮揚時はこの層に乘るなりと。 此三項に共通するは「乘る」、之より聯想して乘馬の極致を形容するに「鞍上人なく鞍下馬なし」の句に至る。馬術に長ずれば則ち身輕しと言ふ。死人の重きを思はば、修練によりて或いは熊笹の上に坐し、或いは薄き空氣層にも乘るを得たるか。但し質量は不變なれば考へうる解釋はたゞ一つ、重力作用點の分散のみ。兩手兩足を井戸側に突つ張らば重力作用點四ヶ所に分散し、同點に於ける摩擦力の總和體重に拮抗して人井に落ちざるが如し。柔き手拭き紙にて割り箸を「氣」によりて斬るは日常之を見る。聽衆に強烈の氣を感ぜしむる尊師の「氣」の力重力作用點を薄き空氣膜上に擴散し得しめたるにやあらむ。寫眞の前傾姿勢乘馬の姿勢に見ゆるも亦宜と言ふべし。蓋し此れ非定常状態にして長時間の持續不可能なること論を俟たず。 以上は「氣」を前提にせるも、然らば「氣」とは何ぞや。古人言へらく、人の生や氣なる。氣竭(つ)くれば死す。氣は以て養はざるべからずと。亦曰ふ正氣六合に洽(あまね)しと。文天祥天地に正氣有り雜然流形を賦すと詠じ、藤田東湖天地正大の氣粹然神州に鍾(あつま)ると次す。此を思はば、生氣正氣に感應して生命現象生ずるにあらずや。 「氣」の本質を知らざるが妄言此の如し。 |