文語日誌 |
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文語日誌(平成十八年十二月) 市 川 浩 臥榻兵話 十一月十九日(日)曇後雨 母方の曾祖父青山墓地に葬る。墓碑銘ありて、嘗て戰後の燒野原の中、舊制中學三年の漢文の宿題とて書寫せり。學校に提出してその後を知らず。既に書寫より六十年を閲し、彼の墓碑銘既に風雨に摩滅して讀む能はず。本日曾祖父の父なる翁の生誕二百年を親族同墓苑に集りて祭る。出雲大社系にて二禮四拍手一禮の列拜後、神戸より駈附くる直系の當主挨拶。六本木通りの食堂アントニオにて懇親の晝食會。この頃より雨激しく降り出し、墓地にて雨に遭はざりしは御先祖樣の御計らひと一同感銘す。この翁文化三年但馬國養父郡大藪村に生れ、幕末、佐久間象山等に就き西洋の兵學を學び「臥榻兵話」なる書物を著し洋兵の術を以て國防を論ぜること紹介せらる。「臥榻」とは寢臺のことなるが、諸橋大漢和辭典は「宋太祖紀」に「開寶八年、宋伐江南。徐鉉入奏乞援兵。上曰、江南亦有何罪。但天下一家。臥榻豈容他人鼾睡。」とあるを引き、他人の侵すべからざる我が領土との意味を加ふ。以爲、翁我が國を夷狄より守る軍略を示さむとて斯くは題簽を附したるらむ。當時の人漢學の智識想像を絶するも、象山の影響ありとせば正に師の師たるべし。 國防に就き考ふるの日、沖繩縣知事選擧、與黨候補勝つの報。米軍基地の七割を引受け尚且つ基地との共存を選擇せる縣民の氣持に他縣の人大いに感謝の意を表すべきに非ずや。大戰中沖繩縣民勇戰して、軍司令官をして後世特別の恩賞を上申せしめ、今日なほ防衞の最前線を擔へるに、報ゆるの實薄からば、やがて邦家危きに陷らむ。知事選勝利にて、前の選擧の造反議員の復黨問題進展などとの觀測見當違ひも甚し。 田中佩刀先生申さるゝに、漢文を引用せむには必ずその訓讀文竝びに和譯文を附すべしと。 (訓下し)開寶八年、宋江南を伐つ。徐鉉入奏して援兵を乞ふ。上曰く、江南亦何の罪有る。但し天下一家。臥榻豈他人の鼾睡を容れむや。 (和譯)開寶八年、宋が江南を攻めた。徐鉉が太祖に御目に掛かつて援軍を御願ひした。太祖が言はれるのに、江南が特に罪が有ると言ふのではない。ただ天下は一家の如し、自分の寢臺に他人が大鼾で寐ることなどどうして容認出來ようか、出來ないと。 ▼「日々廊」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |