文語日誌
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文語日誌(平成十九年七月)
     
                  市 川 浩

教育と教養
七月十九日(木)曇

 拓殖大學副學長草原克豪先生の「教養に就いて考へる」と題する講話を伺ふ。平成三年大學の「教養課程」の分立廢止せられ、「一般教育」の衰頽が問題となりつゝあり、教養は專門教育の基礎との誤れる觀念通行すと。屡々舊制高校は教養知識人を育成せりと言ふも、その實情必ずしも授業の效果に非ずして、全寮制下にて互に切磋琢磨せるこそ與りて力あれ。而して「帝國大學への進學」保障ある環境に於てのみかかる教育を可能とし、今日の大學進學率からは到底望み得べからず。寧ろ、今日の大學、受驗の弊害を言立つるの聲に押され、試驗科目を減らすの害あり。獨立行政法人たる「國立大學」は最早文科省の掣肘を受くるなければ、科目多くして高校生に博く勉學せしむるが急務なりと。また例として文久二年生れの新渡戸稻造、内村鑑三、岡倉天心の教養と、明治三十年生の木内信胤、木川田一隆、松本重治のそれを比較せられ、二十日程前逝去の宮澤元總理に就きての感懷を思ひ出しけり。
 宮澤元總理は戰前高等教育の最優等生にして、その足迹を辿るに、戰後我が國の重要なる岐路に於て常に當事者たり。サンフランシスコ媾和會議(昭和二十六年吉田内閣全權隨員)、教科書誤報(昭和五十七年鈴木内閣官房長官)、皇室財産への相續税課税(昭和六十三年竹下内閣大藏大臣)、河野談話(平成五年總理)、小澤一郎氏に敗北(同年總理)、バブル後經濟政策(平成十〜十三年小淵・森内閣大藏(財務)大臣)。功罪は後世の史家に委ぬべく、只その教養竝びに思想傾向、戰後教育の現總理世代と基本的に異なるは論を俟たざるも、なほ江戸教育の明治人との乖離を感ずるのみ。
 自分は戰中戰後の混亂の中、最後の舊制中學の全課程を修了し、初期の新制大學の教養課程を過ぐしたるが、今にして兩者にさしたる差のなかりしを思ふ。教養を正數に喩ふれば、知識は虚數なるらむ。虚數四乘して正數となる。佛道に四乘を修すとあるも奇し。大學にて知識は増すべし、相乘せざれば教養積むべからず。


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