文語日誌
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文語日誌(平成二十一年七月某日)
     
                  中島八十一

腦内檢索




 朝、下りの通勤電車の長椅子に坐りてかばんを脇に置き、正面の窓を列ねて觀る武藏野の風景のゆるりと流るるはまさにパノラマ映畫の如し。今朝に限りて、ある音曲の初めの二小節腦裏に浮かび、風景を見つむれどしきりにこれを繰り返す。懷かしき音曲なれば、たちどころに千九百七十年代のポップスならむと推したるに、ただ節のみの繰り返しにて歌詞のつくことなし。そもこの音曲を年來聽きたる覺えなし、そは三十年も以前のことならむ。意圖して續きを唱ふるに、第四小節に至れるも、歌詞の附くことやはりなし。いづれの歌手になる音曲か皆目見當無きに、題を思ひ附くこともなく、ただ節のみを繰り返せり。すでに風景は眼中になく、ひたすらこの音曲の正體に傾注せるも解を得ず。歌詞の一片なりとも附くることを得れば、かばんに入れし紙片に書きつけむものを。


 戰略の轉換を圖らむとして名案なく、ピアニストにして事務手傳ひの女性に訊ぬることを無謀と笑ふや。我採譜の技量なければ訊ぬるに術なし、ひたすらこの節を繰り返しつつ職場に達し、朝の挨拶拔きにしてラララと節を口ずさみ、今一度繰り返し、如何なる音曲や訊ぬるの他なし。下りの通勤電車にありて、にはかに生まれし課題の重きに顏はひきつり、身は凝くなれり。


 繰り返しの進むに連れて、いくばくかの自信生まるれば、間合ひを延ばすに障なく、窓外に人家増し、中繼點の近づくを見て取れり。試みに唱ふることを止むるに、またも背筋を伸ばし、まんじりともせず、思ふは如何ばかりの時間の經るや。ひたすら辛抱の後、件の音曲を呼び戻し、素直に導入部始むれば、後は第四小節に至るに苦もなし。


 さて、節を繰り返しつつ、餘技に割くゆとり持たざれば、ひたすらルーチンに徹し職場に急ぐを上策とし、いよいよ乘換驛に到著せり。血相變へて跨線橋を足早に上りて下るを他人は如何に解せむや。ホームに立ちて虚空を睨み、小節を辿るに、果たして首尾よく思ひ出せり。安堵のうちに、入構せし車輌に乘り込むその間際、お辭儀する者あり。何人なりやと訝りしその刹那、腦内檢索のすべては瓦解せり。


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