文語日誌
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文語日誌(平成二十二年九月二十八日)
     
                  兒玉 稔

マティニ



 夕刻、バーWに赴く。未だ客無く、仄暗きカウンターにバーテンI氏端然として在り。彼「例の物にて然るか」。我「然り」。椅子に腰預け彼マティニ拵ふるを間近に眺む。
 マティニは器、酒共に極て冷かるべしと、始めに酒混ずるに使ふミキシンググラスを冷す。透通る氷の塊、ランプの光映して鮮やかなるを數多入れ、グラス冷ゆるの時至れば惜しげなく捨つ。
 そが中に我好みのビーフイーター・ジン適量を注ぎ、僅かのベルモット加へ、攪拌棒素早く動かす。無言一連の作業流るるが如し。彼この仕事を樂しむこと明かなり。
 彼の酒妙なること故なしとせず。用ゐるベルモットにはさる隱し味を加へ少なくも一晩置く。仕事引けて後、暗夜試飮重ね遂にこの手法に到達せる由。その精進努力、酒の混合割合にのみ注力する尋常のバーテン及ぶ所にあらず。
 冷藏庫の内なるカクテルグラス取出してカウンターに据ゑ、今成したるマティニ緩やかにグラスの縁まで注ぎ、黄なる檸檬の皮小片を入れ、ぐいと此方に押しやる。
 
 受けてその冷たきを口に含めば、檸檬の微香混じる強きアルコールまづ腦天を痺れしめ、徐に頭より首、背骨を中途まで下りて前に廻り、やがて五臟六腑に沁み渡り行く。
 
 我いつの頃よりかマティニを好み、その旨きを求め處處或は噂を聞き、或は機會を得て名だたる酒場、諸國高名のホテル客船などにこれを求むるも我が口には遂に此のIバーテン氏に優るなし。


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