文語日誌
推奨環境:1024×768, IE5.5以上



文語日誌(平成二十二年七月十二日)
     
                  兒玉 稔

 電車の座席



 炎暑の候御一統樣には御健やかに御過しのことと御慶び申上候。
 近況報告せよとの御言付なれど小弟家族皆恙無く暮し居り平凡なる毎日にて格別に申上ぐべき出來事もなき次第なれば御安心これあるべく候。
 さて徒然に過日通勤電車内の些事御聞せ申上候。
 小生朝の混雜始まる以前に乘車するを常とし幸に屡席を得候。さる朝、小生席を得て猶右側に座席に餘裕ありて我少し左に寄らば小柄なる人坐り得るさまにて候。
 次なる驛にて大勢の乘客競ひ乘込、大柄なる男我右前方すなはちその小さき空間の前に立ち候。かかる折は小聲にて「失禮」「恐縮」と發しつつ身體を捻りてその空間に尻を下すがエチケットと心得候。その聲を待つまでもなく我身を左に寄せて彼坐すを促さむとし、ふとこの男を見れば、彼恐縮の態度亳も無し。あまつさへ我の顏を凝視し「坐つてやるから更に寄れ」とも言はむ形相にて候。
 我、自ら尻を移動させむとの氣消失。しかのみならず「失禮」の聲聞くまでは動くまじと心決め候。彼も傲岸不遜の態度變へず突張る決心と見え候。次なる驛、更に次の驛に停るにつれ車内益々混合ひ、我の右のみ空間あるはやや異常なれば、我を不審者と見る者あらむと氣萎え、男の無禮に屈し素直に左に寄るべきかとも思ひ、否、ここで負ては男が廢るとも思直し、とかくするうち遂に彼が驛に到著したるにや乘客掻分け出口に向ひ行き候。
 件の隙間には別の人坐り我は緊張から放たれて安堵仕候。失禮なる輩遂に坐し得ざるは天罰なりと彼が後姿に向けて無言の快哉を叫び候へども、なほ我心のかく小さきを今更に知りて、人格未だこの程度なるを亡き父上母上樣はいかに思はるるかと些か反省致候。
愚弟の日常かくの如く候。酷暑の砌皆樣御自愛のほど御願申上候。頓首。
平成二十二年七月十二日

兄上樣
 


▼「日々廊」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る