文語日誌
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文語日誌
     
                  赤谷 慶子

希望の未來  



 一九九五年十二月、朝日新聞社は米國のノーベル受賞者エリー・ウィーゼルの財團と共催にて「希望の未來」と題する國際會議を東京と廣島にて開催せり。世界各國より招請せるノーベル賞受賞者たち綺羅星のごとく居竝び、希望の未來につきての講演と議論を展開せり。朝日の先輩より要人の隨行通譯者手配依頼せられ、語學堪能なる女性たち三十名を率ゐて會議の裏方に專念す。ロジ全般に亙りては、電通を始め擔當者それぞれ振り當てられたれども、講師連と連絡を取るは我らなるがゆゑに、總括コーディネータの役割を負はされたり。
開會式は東京の國連大學にて行はれ、夜は當時皇太子におはしましける今上陛下を御迎へし、濱離宮朝日ホールにおいてガラ・コンサートも開催せられたり。チェコのハベル大統領專用機にて同行記者團率き連れ羽田空港に著陸す。インドのナラヤナン副大統領(後に大統領就任)も膨大なる人數の一行を伴ひて來日す。豫算の關係ありて、外國要人三人に對し一人のアテンド附くといふ業務にて、總勢百名の來賓移動するたびに肝つぶるる思ひなりき。
開會式翌日新幹線にて廣島への大移動となれり。宿泊先の帝國ホテルより東京驛まで何臺もの大型バスにての移動に、手傳ひするはずの旅行會社の誘導心もとなく、新幹線出發まで「積殘し」なきか確認するは正に胃痛を覺ゆる過程なりけり。インド一行は自國の治安惡しき故、荷物を東京より輸送する際、トラックの後部扉を「封印」し、その後を廣島までインド警察三名大使館の車に乘車して、追ふといふ事になれり。更には副大統領一行移動するたび、車列は十臺と決められたるにも拘はらず、毎囘倍に膨らみ、我等警視廳より大目玉くらふ。パトカー先導にて、信號機止めたるを叱責せられたれども如何ともしがたし。何度注意せらるるもインド側聞入れず、朝日新聞の擔當者閉口してあり。廣島の宿泊先はリーガ・ロイヤルなれど、インド一行は廣島プリンスなりき。インド側の言ひ分は、チェコに比ぶればインドは大國なれば、ロイヤル・スイートにあらざれば宿泊を肯んぜずとの無理難題。さやうなる部屋はホテル一つに一つのみ。やむなく廣島プリンスを選定す。
會議は廣島國際會議場に於て行はれたれど、出入りの際、多くの黒塗りの車と大型バスに加へ、車列組まねばならぬ一團多數ありて、毎囘混亂す。毎晩、宴會終はり一段落と思ふも束の間、午前一時より反省會と翌日の打合はせこれありて、部屋に戻るは午前三時、シャワー浴び就寢し、五時には起牀。朝食とりながら隨行通譯者たちそれぞれの接遇要人の動き及び全體日程などの指示を出だす。
三日目、要人いよいよ離日するの日、旅行會社スタッフ疲れはて機能せぬ故、その任は我らに託されき。大阪伊丹空港より出發のベトナムの大臣搭乘豫定の航空便遲延したれば、成田より出發豫定のベトナム航空便もこれに合はせて遲らするなど、普通にはあり得ざる事起きぬ。米國名門新聞及びインドの最大手新聞社のオーナーたちそれぞれ荷物十五個以上あり、京都の俵家に泊まる豫定なれば、荷物を降ろさんがためのみの隨行者を要求す。かくのごとき業務は不可能にて、腹立たしきこと限りなきも、その當時宅急便もなかりしかば、ホテル間の便を利用することにて決著せり。かかる無茶苦茶の要求頻繁にあり、ためには睡眠時間も毎日二時間程度にて疲勞困憊し、同僚も吾も廣島より新幹線の中にて熟睡し、終點東京驛に歸著するまで、まつたく氣を失ひたる状態にてありけり。我ら若く體力あればこそ仕おほせたれども、かくも奇怪難儀なる作業の強要は二度と御免蒙ると思ふほどに疲れ果てたり。裏方をつとめし我らには「希望の未來」の會議内容など聞く時間も餘裕もなく、そもそも希望の未來とは如何なるものなりやと、考へこみつる。


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