文語日誌
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返哺((注)參照)
     
                  
中島八十一


 余が母、齡九十七にして漸く生命に衰への兆し有り。大正五年の生まれなれば、大正八年の本邦におけるスペイン風邪流行を乘越えたること特筆すべし。以後、金融恐慌、大東亞戰爭などの大事は社會の經濟力低下を介して衞生状態劣化をもたらしたるにこれをも乘越えたることは、本質的に丈夫といふに相應し。
 九十五歳にて慢性硬膜下血腫なる頭蓋内の靜脈出血を契機に歩行不能となりぬ。慢性硬膜下血腫は固より外傷に起因すれば、丈夫なる體質を持ち合わせをりしもこれを避くるに如何ともしがたきことなり。
 施設にて、食堂に出でて他の老人たちと毎囘食事を共にするだけの元氣はあれど、年餘を經て次第に咽すること多くなりぬ。固形物はほぼ普通に攝り得るに、液體にむすること甚だしく、お茶の一杯もとろみを附けて漸く飮まるるやうになりけり。さらには食における執著の薄るること、名調理人として家族の賞贊を得たりける人生からは想像し難き事實なり。
 扠(さ)ても斯(ここ)に初めて余の出番が初めて現出とはなれり。病院にありては看護師の言ふに、御長男の一匙に開けたる口の上下の幅は我らの倍はあらむかと。

 約一時間をかけて漸く完食に至るが常なれば、中途にて襃めたり、宥めすかしたり、上手く喉元を過ぐればやれやれと思ふに、なるほどこれらすべて母がかつて余を育てたる折になしたることに同じと氣附きけり。これを返哺といふのも初めて知りたり。


(注)反哺(はんぽ)からすが生まれて六十日間母に哺育せられ、長じて母老ゆる時、子烏反哺して母を養ふと言ふ。梁武帝 孝恩賦に曰く、


靈蛇含珠以報酬徳 慈鳥反哺以報親。
靈蛇珠を含ませて以て徳にむくい 慈鳥哺をかへして以て親に報ゆ。慈鳥烏也
靈妙な蛇には珠を含ませてその徳にむくい 慈鳥即ち烏は親に報いるに哺を反かへす





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