文語日誌
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文語日誌 目黒教室作品


日本語の美しさ      市野 緑
文語教室にて愛甲先生の御講義を受け、日本語の有する奧深き美しさに今更乍ら氣附けり。變化に富む表現、含みある多樣なる言葉は、單に相手に思ひを傳ふるのみならず、「何か」がある樣に思へり。外國人には理解され難きものもあり。例へば楠々「あいまい」とせらるる表現は、好い加減、解り難しと思はれがちなるが、所謂好い加減とは違ひ、相手を不快にせざる潤滑油としての役目も有すと思へり。四面海に圍まれたる農耕民族日本人の調和を計る知惠より生れしものならむ。相手に對する心遣ひある言葉遣ひは末永く尊重すべきものなり。
(平成二十五年五月)


自然災害      遠藤紀子
「國難」とも言はれし「東日本大震災」より早や二年半經てり。

昨年八月、知人より聲掛かり、被災地を訪ぬる機會得たり。新聞・テレビ等にておほよその慘状は承知せしつもりなれど、實際に現地を目の當たりにして、衝撃を新たにせり。貴重なる體驗とのその思ひは今も變りなし。その後、復興も思ふやう捗らぬ樣子なりしに、先の埼玉、千葉方面を襲ふ龍卷も又すさまじきものなり。

今夏の猛暑、豪雨は異常なりしに、直下型地震、東南海地震に關する報道も多ければ、自然災害に對する不安とめどなし。
(平成二十五年九月)


正月飾り      緒方美那子
愈々今年も餘日僅か、孫二人(十歳、七歳)リュックを夫々に背負ひて來りぬ。十二月二十八日のことなり。「一月二日まで世話になりたしといふ」といふ。さすれば、孫達に正月を迎ふる支度を覺えせしむる好機得たりと思ふ。先づ我玄關を清め、夫、孫と共に門扉に松を飾り、次は鏡餠を御三方に載せ、牀の間へ置く。神棚には干支の巳の繪馬を飾り、お屠蘇器に屠蘇を注ぎたり。上の孫は目に見えぬものへ思ひを馳せ得るやうになりぬれど、下の孫は「年神樣は如何にして天より下らるるか」、「お屠蘇を飮みて神樣は醉ひ給はぬか」など數多のこと尋ぬ。答ふるに窮することあれど、これも亦樂し。やうやうにして、お年玉、御三方に置きて、正月飾りの支度調ひたり。我が家の爲せしことなどささやかなることなれど、せめて次代へ傳へ行くことを務めたき思ひなり。正月飾りは二十八日までにと亡き母の教ふる聲甦り、幼き日の行事、鮮やかに思出づ。
(平成二十五年一月)


笑ひヨガ      奧村淳子
世の中に健康を願はぬ人は有らず、健康をテーマとせる番組多し。さるときテレビにて、外國の話なれど、笑ひヨガなるもの紹介せり。そは數人にて圓のかたちに立ち、一言挨拶、自己紹介などを爲す。他の人々聲をあげて高らかに笑ひあふ。假令可笑しからずとも兎に角笑ふ。順次一同そを繰り返す。一人にても鏡に向かひ高らかに笑はば同じく心から明るき心持になるらし。口の隅を上げ目元に笑みを湛ふ。笑顏はその人を最も若く美しく見するなり。笑ひ心身を活性化するなり。腹式呼吸、發聲練習ともなるべし。良きことは早速試さん。されど忘れやすき我なれば、白きシールに「笑ひヨガ」と書きて家のそこここに貼り、氣づきたるときに實踐す。或る日遊びに來し四歳と六歳の孫、そを見附け、なんぞやと問ふもきまり惡く、言葉濁せり。樂しくひと時過ごし、機嫌よく歸りぬ。夜になり、ふと見れば部屋の隅になにやら白く丸きもの轉がりぬ。はて何ぞやと手に取れば、なんとあちこちより集められたる白きシール貼られたる夏ミカンなり。これこそ孫たちの仕業と思ひ當たり、大聲にて笑ひけり。
(平成二十五年五月)


祖母と母の訓へ      武下範子
胃の不快感を覺ゆることひと月餘、祖母の常日頃「胃靠れは胃を干すが良し」とのたまひしを思ひ出づ。夏の酷暑さほど辛き思ひなく過せし故、大事なしと自然治瘉をひたすら願ひ、食事は八分、間食なしを課したるが、食後のもたれ感止まず。常に甘き菓子、天麩羅、海老、芋の旨煮と我が好物目に浮かぶ。ふと母の「若き頃は多少の無理も障り少なし。年を重ぬれば食細くなる故、食し得る間に食するが良し」と語りしを思ひ、この症状、年の所爲、消化能力の衰へと悟り、醫者の藥に頼る事となる。年を加ふる毎に憂きこと増すを實感す。
(平成二十四年十一月)


平泉澄博士      難波江紀子
「大日本史」を主題とする日本歴史について。平泉澄博士の講演より、「水戸義公と織田信長の青年時代と立志」と題されしものを讀む。昭和三十二年は、大日本史編纂始まりてより滿三百年に當れり。出光講堂にて平泉博士は「水戸義公と織田信長の青年時代と立志」といふ題にて講演せらる。博士はその講演にて義公と信長の比較を爲す。義公、信長ともに、青年時代にその人格に影響を及ぼすべき大いなる體驗あり。義公にとりては十八歳になりし時、史記の伯夷傳を讀みしこと、信長にとりては平手政秀の自殺に遭遇せしこと。されど、義公はその後學問により強き精神を鍛練するも、信長はかかる鍛練すること無し。

歴史上に名高き二人の人物に學ぶこと多し。 (平成二十五年九月)


野村胡堂夫妻      梅津睦郎
人間としてわれみちびきしは、母、京なり。その母の叔母、橋本ハナ・・、野村胡堂こだうに嫁とつぐ。

母の實家は岩手、ぐん彦部ひこべ村に在り、かしは屋と號し庄屋しやうやなりき。吾幼き頃(昭和十年頃)四季折々にたづねたり。花卷よりバスにて日詰ひづめ、それより徒歩にて北上川に到る。向う岸の渡し舟を「おーい」と呼びて渡る。更に可成り歩み漸く目にする白壁しらかべくら、これぞ目指す實家なり。隣家は百米の離るる一軒のみ。はるかに起伏おだやかなる山々、中腹に水車小屋あり。小川を東にして一幅いつぷくの繪の如し。水道無く百米離れて井戸あり。離れ部屋は細き川のせせらぎ・・・・を聞く。全ての種類の果樹くわじゆあり、吾は食べ放題なり。田植ゑ、稻刈りも學ぶ。かかる山村なれど、母の兄弟十二人、長男は東大醫學部、次男は東工大、幼な子に歌(たにし殿)を教へし叔父の一人が農學校生なれど、猛勉強の末、醫大に合格するを得たり。吾を育てしはこの大自然の惠み、大家族のやさしき思ひやり・・・・なり。

その叔母ハナ・・は愛らしき女性なりき。日本女子大に學ぶ。野村長一(胡堂)は隣村大卷おほまきの生れにして、盛岡中學より東大に學ぶ。二人は或るけにて知り合ひ相愛となる。明治三十五年頃、春、夏の休みに一重ひとへはかま姿のハナ・・弊衣へいい破帽はぼうの長一、映畫「野菊の如き君なりき」をはうふつとせしむる渡し舟の風景なり。

長一は新聞記者になり、貧乏びんぼふながらクラシック・レコードを買ひあさる(一萬枚以上)。後に野村あら・・えびす・・・の筆名にて日本初のクラシック解説書「樂聖がくせい物語」を著あらはす。ハナ・・夫人は教師となり内助の功いちじるし。

長一は親の定めし婚約者居りしも、げむとしてうべなはず、貧しき二人の結婚は神田の蕎麥屋二階にて行はる。立會ひしは父及び友人二人、一人は盛岡中、東大の友人金田一京助(後、日本初國語辭典著者)、今一人は長沼智惠子ちゑこなり。彼女は後高村光太郎に嫁ぐ。智惠子抄その人。なんたる取合せか。胡堂その後えにし神田明神下みやうじんしたを舞臺に錢形(ぜにがた)平次を書く。

野村家は高井戸に在り、吾學生時昭和二十五年頃よくたづ手捲てまちく音機おむきたけばりにて聞く。吾こそ野村獎學生第一號なりしか。數々の深き恩に謝する氣持、今改めて新たなり。

ハナ・・は優しく、われまことに敬愛せり。ハナ・・の女子大後輩に親しかりし幼稚園の先生あり。その方の子息優秀なり。小學生にして科學雜誌に投稿とうかうし、數々の賞を受けたり。夫妻その小學生に有る時ばらひのさいそくなしにて、幾らにても差上ぐると約せり。その男子こそはソニーの創始者ぶかまさるなり。昭和二十一年創業にも出資、その翌年ソニー(當時東京通信工業と稱す)金繰り最惡となり、井深大、盛田もりた昭夫あきを打揃ひて高井戸を訪ひ、平次親分にすがるほかなしと恐れ乍ら申出でたり。まさる氏の願ひなればと快諾くわいだく、四萬圓(終戰直後なれば、時價は億單位なりや)を與ふ。これにてソニー窮地きゆうちを脱したり。この事平成六年十月日本經濟新聞に「錢形平次 ソニーを救ふ」と寫眞、全面記事掲載せられぬ。

追記
胡堂夫妻生活極めて質素、ソニー株を賣卻せる代金をもつて、今もなほ獎學制度續く。
(平成二十五年一月)


江田島の舊海軍兵學校見學      水澤雄也
四月三日午後、友人川野氏とともに廣島縣江田島市の舊海軍兵學校(現在、海上自衞隊幹部候補生學校)を見學せり。呉港より高速フェリーにて江田島の小用港にわたる(約十五分)。小用港よりバスにて校門前著(約十分)、見學者四十人。

當日快晴にして校内の櫻滿開なり。説明員の解説を聞く。江田島の舊海軍兵學校は、明治二十一年(一八八八)東京築地より移轉。(明治二年築地に海軍操練所として設置、明治三年海軍兵學寮と改稱、明治九年(一八七六)海軍兵學校と改稱)
ちなみに日本海海戰の連合艦隊參謀秋山眞之(明治元年(一八六八)三月二十日生、大正七年(一九二八)二月四日病死、滿四十九歳十一ケ月、海軍中將)は、東京築地にて明治十九年十月入校、明治二十三年江田島にて卒業、十七期、八十八名中首席なり。

同校はイギリスのダートマス王立兵學校、アメリカのアナポリス兵學校とともに、世界に誇る三大兵學校の一にして、帝國海軍士官養成の場として、當時青少年の憧れの的なり。入校試驗は最難關なり。
明治二十六年竣工の赤煉瓦生徒館は、二階建て東西約一四〇米の美しき學舍なり。近くに位置せる古鷹山は、生徒の心身鍛錬の爲に登るを常とせりと言ふ。教育參考館に入る。同館は昭和十一年完成の由、中央階段正面の「東郷元帥室」には遺髮安置せらる。また、山本五十六元帥はじめ舊帝國海軍を代表せる提督の資料等一千點保存展示せらる。

大講堂を含め一時間三十分の見學を終へ、校内のレストラン江田島にて名物「海軍カレー」を食しつつ、友人川野氏と語り合へり。「日本敗れたりとは言へ、江田島に學びし多くの有爲なる人材の戰後の復興と高度經濟成長に寄與せる役割は甚だ大なり」と。
(平成二十五年六月)





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