粤王寓>「陸奥万国史」岡崎久彦
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 無一物中無盡藏       

                    岡崎久彦
 無一物中無盡藏 丁酉春、岸信介


 禪の偈なるか、出典は知らず。
 そもそも、解釋に特別の出典を要せざる、平易なる成句を二つ繋げたる偈なれども、敢へて出典を求むれば、蘇東坡の赤壁の賦ならむか。
 時に蘇氏、王安石と良からず、黄州に流謫されしが、一夕、赤壁の地に舟を浮かべて友と遊ぶ。宴酣はにして、友、英雄曹操を想起して、天地の間における、自らの卑小さを嘆く。
 これに對するに、自ら流謫の身なる蘇東坡曰く、
「それ天地の間、物各々主あり、苟も吾が有する所に非ざれば、一毫と雖も取る莫れ。
唯江上の清風と山間の明月とのみ、・・・これを取りて禁ずる無く、これを用ゐて竭きず、
是れ造物者の無盡藏なり。」と。
 ここにおいて、客大いに喜び、蘇氏と客、江上の清風と山間の明月を愛でて、杯盤狼籍に到るまで酌みし、と赤壁の賦にあり。


 岸氏また、巣鴨の獄中にあり、無一物の中に、四季の遷り變はり、世界の大勢の動きの無盡藏を感得されしならん。
 丁酉春と言へば、昭和五十七年春、まさに、岸氏、初めて總理となられし時なり。その感懷を述べられし書なり。
  總理大臣の尊敬されしこと、その書の珍重されしこと、當時は、現在の比に非ず。表裝には贅を盡くせるものの如し。書の高雅、流麗なることは言ふに及ばざるも、その表裝は、今に到るまで表具師の讚嘆するところなり。


岸信介、歴代の總理の中でも、余が、最も傑出せりと思ふ總理なり。
  岸總理最初の外遊はアジアなりき。今は通常の事なるも、日本國總理としては歴史上初めての事なり。當時日本は全世界を相手に戰ひし後の敗戰國として孤立し、各國も日本と親しくするを憚るの風あり。
  岸總理は、インド、ビルマ、タイ、祕かに日本に好意を抱くを知り、まずインドを訪問せり。ネルーより、數萬のインド人聽衆を前にして、日露戰爭における日本の勝利が如何に全アジアの若者を感奮興起せしかを披露し、熱狂的な喝采を受けしと言ふ。
  岸氏の孫、安倍晉三氏、二囘の總理就任後早々にインドを訪問せしもその縁ならむ。
  かくして、岸總理、日本はアジアに友人を有することを示したる上、訪米し、アイゼンハワーと安保改定の約を達成す。そして、訪米の成功後、フィリピン、インドネシアなど、舊占領地諸國を歴訪したり。その外交の冱え、他の追隨を許さざるものあり。
  しかも、インドなど歴訪の途に就く、その朝の閣議にて、「國防の基本方針」を決定し、また、訪米の二日前に第一次防衞力整備計畫を決定し、戰後日本の防衞態勢の軌道を敷けり。
  戰後の日本の繁榮岸信介に負ふところ大なることを改めて感じつつ、岡崎研究所が現住所に移りし時、この扁額を玄關に飾りたり。その一年後に、第二次安倍内閣を迎へたるも又何らかの縁ならむ。  


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