逍遥亭>和田裕:サイトウキネン・オーケストラを聴く |
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[サイトウキネン・オーケストラを聴く] 和田 裕 平成十五年九月十四日正午、新宿発「スーパーあずさ7号」にて家内と共に一路松本 へ向ふ。同日午後四時より松本文化會館ホールに催されるサイトウ・キネン・オーケ ストラ本年度最終の演奏会を聴かんが為なり。 この日東京は九月半ばと云ふに気温三十三度を超ヘ、加へて湿度高く不快指数は恐 らく八十パーセントに達するならむ。汗に塗れて乗車せるも、幸にして車内の整ひた る空調により人心地を取戻したり。午後二時五十分定刻に少し遅れて列車は松本駅 ホームに進入せり。 直ちに駅前よりタクシーに便乗して会場へ赴く。当日は日曜日 の為なるか道路は閑散として、車の往来も少なく、白壁瓦葺の家並の続く街中を抜け て程なく會館前広場に到着す。 当日松本も天候は快晴にして気温はさして東京に変らざるも、湿度低き為何等不快 を観ぜず爽やかなり。入口前の飾付モニュメントの類燦々と注ぐ日の光に映へて、恰 も来場者を歓迎するが如し。會館内の階を昇レバホール前ロビイにて来場者に対し地 元紅白葡萄酒等の無料接待例年の如く行はれ居り、開演までの暫しを楽しむ。定刻約 五分前の予鈴により席に着く。我等が席は二階正面やや右寄りの最前列に指定されあ り、正に最上の場所と云ひ得べし。 今回のコンサートの演奏曲目として予定されたるは二曲にして、先ず瑞西人現代作 曲家なるフランク・マルタンの一九四九年作曲にかかる『七つの管楽器とテインパ ニ、打楽器と弦楽器のための協奏曲』、更に休憩を挟み墺太利人アントン・ブルック ナーによる『交響曲第七番 ホ長調』なり。蓋しこのブルックナーが当日の主要演奏 曲目ならんか。 演奏開始に当り楽団員夫々の楽器を携へステージに登場、その中に指揮者小澤征爾 の姿を認めたり。由来指揮者は楽団員全員着席を待って最後に登場するを以て通例と せるも、このコンサートは、共通の師齋藤秀雄を偲ぶ意味に於て指揮者も又同僚の趣 旨にて、敢へて同時に登場するものと察せらるるなり。 最初のマルタンの曲は現代曲としては意外に軽妙にして耳に入り易き旋律あり、ア レグロ、アダジエット、アレグロ ヴィヴァーチェの三楽章によって構成されし古典 様式の協奏曲にして、仏蘭西作曲家プーランクを彷彿せしめる管楽器のハーモニイと 洪牙利バルトークのリズムを想起せしむるテイムパニーの響アリ、之を各演奏者夫々 十分の妙技を以て表現し満堂の聴衆の期待に応へたり。特に長身の外人テイムパニイ 奏者の動きはげきてきにして多くの注目の的となりたり。指揮者並びに各独奏者は熱 狂する聴衆の拍手に四度に渉りてステージに登場せり。 休憩時二階ロビイより窓外を眺むれば、正面信濃の山並柔らみたる陽光を受けて、 長々と緑の稜線を見せて横たはれり。その澄み渡る碧空は空気乾燥度の高きを示す証 にして、管楽器、打楽器の響の心地良きはこの為も有らんかと頷けたり。 愈々ブルックナー『交響曲第七番』の開始なり。指揮者各楽器奏者交々登場して所 定の席を占む。 管楽器奏者の列に目をやれば、フルートの工藤重典、オーボエの宮 本文昭、クラリネット カール・ライスター始め錚々たる内外の著名なる独奏者顔を 並ぶ。この贅沢なる顔触れの交響楽団が果してブルックナーを如何なる音を以て表現 するや興味津々として限りなし。この日の使用楽譜はノヴァーク版によると云ふ。 指揮者小澤、台上にて暫し瞑目、徐にノンタクトの右腕を挙げてオーケストラを指 示すれば、先ずセロ等の低弦による荘重なる響に導かれ聴き慣れし第一楽章アレグロ モデラートの旋律ホールに流れ始む。 思へば之迄百回を遥かに超へる数多くの小 澤指揮による演奏会、録音等を聴く機会ありたるも、彼の指揮するブルックナー作品 を耳にするは今回が最初なるに気付き改めて感慨一入なるものあり。 曲は我が感慨には委細関係なく、やや速めのテンポにて進行す。ブルックナーの演 奏は指揮者朝比奈隆、チェリビダッケ若しくはヴァントに代表さるる如く、荘重にし て素朴且つ獨墺音楽の特徴の一つたる明快より陰深を尊ぶ傾向ありしも、小澤の夫れ は斯る観念を離れて、リズムは明確にして、旋律もよく歌はれたる近代的感覚による 演奏にて、伝統を懐かしむ人々には物足りなきことならむ。なれども作曲者特有の執 拗な反復も指揮者の微妙なる工夫によって少しの停滞をも感ぜしめず、小澤は豊なる 銀髪を恰も歌舞伎の鏡獅子の如く波打たせつつ或は屈し、或は爪先立ちて楽器に対す る細部に渉る指示を与ふれば、時に弦楽器群嫋々と泣き、時に管楽器群咆哮す。打楽 器又負けじと遠雷を轟かして演奏に瞬時の弛緩をも許さざりき。やがて曲は緊迫度弥 増す間に愈々最終楽章に突入す。 斯くて満堂の聴衆唯唯曲に酔ふ内に小澤は遂に劇的なる終結部最後の和音を奏し終ん ぬ。 一瞬の静寂を置きて爆発的拍手の波波波。 然り! ブルックナー交響曲第七番の演奏は成功せり。 絶えざる万雷の拍手の内に指揮者演奏者全員、配られたる花束を各自に打振り聴衆 の声援に応ふるは正に最終コンサートのフイナーレの醍醐味と云ふべし。聴衆一同名 残を惜しみつつ出口に至れば、紫竜胆の花一人一人に手渡されたり。之を懐きて外ヘ 出れば薄墨色の空に信濃の山並微かに認めらる。 我等之に別れを告げ会場を離れた り。 平成十五年十月二日 和田 裕 ▼「逍遥亭」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |