侃々院>「日韓併合百年」岡崎久彦
推奨環境:1024×768, IE5.5以上




  岡崎久彦


  日韓併合百年       


 關東平野の西隅、現在の埼玉と群馬の縣境あたりに勢ひを振るひし豪族、兒玉黨の裔なる人の土藏に保存しありし、日韓併合記念册子(明治四十四年一月一日 有樂社)を閲覽するの機會ありき。特製定價貳圓五十錢の豪華版なり。
 其の附録に、春畝伊藤博文公、一堂李完用侯など、四名連作の七言絶句の揮毫あり。もとより版製なるも墨痕淋漓として、實物の如し。


詩に曰く
 
甘雨 初めて來たりて、萬人を霑す。春畝
咸寧殿上、露華 新たなり。槐南
扶桑槿域 何ぞ態を論ぜんや。西湖
兩地一家 天下の春。一堂
   初九 庚戌書 一堂 李完用
 
 日附は日韓併合の歳、庚戌(一九一〇 明治四十三年)舊暦一月九日、新暦二月十八日なり。
 然れども、すでにその前年、己酉の歳に、伊藤公ハルビン驛頭にて兇彈に倒る。
  おそらくは、伊藤侯最晩年の一九〇八、九年頃の舊暦新春の宴の際、森槐南、曾根荒助、李一堂と共に、戲れて作りし書を一堂が預かり、日韓併合を目前にして、今は亡き伊藤との一夕を偲びつつ、一堂の落款せしものならん。


 王蒼海先生釋し賜ひて曰く。
 漢詩を讀むに際して、まづ、その季節を考へざるべからず。一堂が「春」といふ言葉を使ひし以上、時は春ならん。初めて來る雨ならば年初ならん。正月の雨雪は吉祥なれば、甘雨と表現したるに非ずや。
咸寧殿は、徳壽宮の一劃なり。露華新には、雨に潤ふ花なる意味のみに非ず。露西亞と中華を革めし含意なるか。
ここまで讀み來りて、一堂の、悠揚迫らざる「天下の春」なる句が活きるなりと。


 王蒼海先生の博識、考證の精密、今更ながら感嘆に堪へず。
 たしかに、時、春に非ざれば「天下の春」の一語用ゐるべくもなからん。
「露華」は、李白の沈香亭の詩より借りしものならんも、露西亞と中華の支配を革めし含意ならんとは!。
 漢詩を讀むに中つて一字一字その含意を想像するの樂しみ改めて學びたり。
 

 蒼海先生、一堂の書を見て、嘆じられて曰く。是ぞ稀代の膽力ある人物ならんと。余も改めて其の筆勢を見るに、大膽、自由無碍,尋常(よのつね)の人の書には非ざるなり。
 今にして思ふに、余かつてソウルに在勤せし時、骨董屋の主人余に語りて曰く。李完用の書は稀代の名筆なり。今ならば捨て値ならん。需めて購ふべしと。然れどもその後一堂の書に接するの機會無かりしなり。
 一堂の書の高風を、一目見て認められし蒼海先生の眼識に、改めて、感嘆するのみ。
 

 ここに至りて、余、一堂侯とはいかなる人物なりしか想ひを囘らすさざるを得ず。
 余、さきに、大日本帝國の友たりし、陽明學の達人、南京政府主席王兆銘、周文王の王道を志せし、初代滿州國總理鄭孝胥について考察せしことあり。いづれも戰後の史觀において埋沒せしめられしその高風に打たれしが、李完用については、つひぞ顧みるいとま無かりし。
 

 李完用、戰後韓國においては親日派、賣國奴の代名詞にして、
盧武鉉政權下において、親日反民族行爲者財産の國家歸屬に關する特別法の下に、その子孫は土地を沒收せられたり。
  

 李完用の經歴を尋ぬるに、一八八三年科擧に合格し、八七年より三年間アメリカに勤務したる大秀才なり。九五年閔妃日本により暗殺せられ、大院君派の政權成立するや、その打倒を策して成らず、米公館に逃亡す。翌九六年、日本の壓迫を避けしめんがため高宗をロシア公館に避難せしむるに成功し(露館播遷)、外務大臣となる。しかれどもその後ロシア公使ウェーベルと對立し一旦は地方に左遷となる。一九〇一年以降中央に戻り、米國を頼るも、日露戰爭に際して親日派となる。
 一見紛紛たる輕薄の何ぞ數ふるに値せざる變節漢の如く見ゆるも、その眞情を察するに、國事を憂ひて一身の危險を顧みず奔走せし、熱血漢なりしならん。
 閔妃暗殺を憤りてクーデターを策せしは命知らずの義擧なり。
 露館播遷こそ、日本を窮地に陷れし祕策なれ。事件收拾のために急遽駐韓公使として派遣せられし小村壽太郎、歸朝後勝海舟を訪れて曰く、「幕末の勝閣下と同じなりき」と。勝、その意を問ひしに、「天子を奪はれて萬事休せり」と答へ、互ひに呵々大笑せり。日清戰爭にて日本が得たる果實、ことごとく日本の手より奪はれしは、李完用の露館播遷の策成功の故なりき。
 しかれども、その後ロシアの意圖を見拔きアメリカを頼らんとせしもまた炯眼と言ふべし。
 ちなみに、この詩の由來を尋ねんとして、伊藤公訪韓の事例を求めて外交文書を渉獵せしに、一九〇四年日露開戰に際して第一次日韓議定書を結びしときの記録に遭遇せり。
 開戰と同時に、日本軍仁川に上陸しソウルを抑へて、議定書を署名せしむ。しかれども、韓廷内には、ロシアの意向を忖度して逡巡する動きあり、これを鎭めんがため、伊藤公を特派す。伊藤公は、三月十八日韓國王に謁見し、更に二十日、二十五日と前後三囘にわたりて韓國王と會談せり。その内容、公電に詳びらかなり。
 韓帝曰く、
  ・・・今や露國は滿州を占領し、進て我國境を扼し虎視眈々我國に迫らんとす。若し夫れ我國にして一朝彼の有に歸せんか、是れ獨り我國の不幸なるのみならず。實に又東洋の禍危に屬す。是日露開戰の今日に免かれざる所以なり。・・・
 遡て考ふるに、甲午、乙未の間(一八九四ー五)尚ほ我國太公在世の日、政變頻りに起り爲めに國政改善を妨げられ、朕が身亦危に坐し倉皇露館播遷の擧に出づ。其同館に在るの日潛かに彼の動靜を察するに、彼は我國に對し隱然野心を挾むを知る故に、露館を去るの後と雖も其播遷中の恩に顧み、敢て顯はに疏外するにあらざるも、其術中に陷らざる樣深く戒心する所ありき、と。
 日本公使林權助、電文末尾に注釋して曰く、國王、自らは親露派に在らざるを釋明せんとせしものならんと。然れども、余、今にしてこの記録を讀むに、さにあらず、韓帝の眞情を吐露せしくだりなりと思ふ。
 すでにソウルを占領せし日本軍の強壓の下と雖も、韓帝、敢へて閔妃事件における日本の干渉を責むるを怠らず。しかれども、ロシアの野望顯かなる状況においては、日本と協力するのほか無きこともまた明らかなり。日本の野心は未然の脅威なるも、ロシアは目前の危險なり。當面これを避けざるべからず。韓帝と言ひ、李完用と言ひ、思ふところ同じといふべし。
 

 その後の李完用の進退、とくにハーグ密使事件以降、伊藤公と共に韓帝の退位を迫り、また併合に至る過程において、若干の主張はせしも容れられぬまま、日本の意向に順應せしを、如何に解すべきや。
 いづれにせよ、客觀情勢は、最早挽囘し得べくもなきこと明らかなりき。列國すでに日本の自由裁量を認め干渉の意圖なし。ハーグに密使を送るも、安重根の如く擧兵するも、所詮狂瀾を既倒に廻らすの術なく、事ここに至りては、岳飛、文天祥の殉國に倣ふか、あるいは隱忍して李王家の破滅を避くるか、いづれより無き状況なりき。
 ここにおいて、余、二つの假説あり。江湖の批判を仰ぐ。
 一は、李完用、伊藤公に最後の望みを託せしならん。伊藤、エジプトの舊來の秕政を改革し三十年の善政を敷きしクローマーを理想とし、旭日の旗と八卦の旗の竝び立つを欲すと公言せり。
 遡れば、北清事變前、清國においては、明治維新を達成せし伊藤を清國の宰相に迎へて清國の改革を行はしめんとの上奏あり、前述の會見においても韓帝、伊藤公をビスマルクに比肩すべき人傑として稱へたり。
 また、それは韓帝、李完用のみの期待にあらざりしなり。『朝鮮の悲劇』の著者マッケンジー曰く。「伊藤の韓國人の好意と尊敬を受けしこと注目に値ひす。彼の仁徳は彼自身のものにして、彼の統治の上での缺點は、全て日本帝國の擴張に伴ふ避け得ざる附隨物とみなせられたり」と。 
 李完用、韓國のいづれは列強に併呑せらるる状況は認めつつも、ロシアの專制よりも、伊藤公の開明的支配に期待せしは想像し得るところなり。敍上の詩意もここにあらん。
 第二の假説は、現在の韓國における史觀と背馳するところ更に大ならんも、韓國内において李朝の秕政に對する怨嗟の聲甚だしく、少なくとも當初は、日本支配はその比較において論じられしことなり。
 マッケンジーによれば、日露戰爭開始後暫くは、下層民は日本が朝鮮役人の壓政を正すことを期待し、知識層は日本の援助なしに改革は不可能と信じ日本に心を寄せたりと。
 親韓派として反日派を庇護したるアレン米公使も、韓廷の腐敗と陰謀に幻滅し、「もし米國、感情的の理由にて韓國獨立を支援せば大いなる過ちを犯さん。韓國民は自己を治め得ず。日本による併合は、韓國民と極東の平和にとつて良きことと思ふ」旨、ワシントンに書き送りたり。
 かかる日本が韓國民の期待を裏切り、韓國民を收奪し怨嗟の的となる過程を描きしが『朝鮮の悲劇』の主題なり。


 李完用、併合決定を通知せられ、韓國の名稱を殘すを要望せしも、寺内統監により拒否さる。李また、日本と親しむも、日本語は決して學ばず、日本語で會話せし事も無かりし由。
獨立新聞の記事には李批判は全く無く、一九二六年逝去に當たりては、李を惜しむ葬列は數キロに達せしと言ふ。

大日本帝國滅びて既に六十五年。大日本帝國の友たりし人傑の高風悉く歴史の襞の中に埋沒せり。
 嗚呼。  


▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る