侃々院>「鄭孝胥の書」岡崎久彦 |
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岡崎久彦 鄭孝胥の書 過日明治の元勳の裔なる人の來訪あり、かつて滿州に勤務されし御尊父より遺された書の由來を知りたき由、拜見するに滿州國初代の總理大臣鄭孝胥の書なりき。 鄭孝胥は、擧人、進士、秀才と、他の追隨を許さず科擧制度のトップを走りし清末の大秀才にして、清朝滅亡後は袁世凱、段祺瑞から懇請されても出仕せず、ひたすら溥儀に帝王學を講義せり。 乞はれて滿州國初代總理となりしが、周の文王の王道國家を夢見しと謂ふ。國家の要職を日本人の占めるところとなるも、「楚材晉用」と答へてていなせし大人(たいじん)なりき。晉は文王の流れを汲む名家、楚は新興強大なりと雖も格の低き野蕃國なり。 清國再興の時節を待ちての韜晦か、あるいはそれを超越した王道主義哲學か、測り知り得ざる大人物なりき。 詩に曰く 莫然還道文美萌 慢雲摸滿授誠道 逍萬探廼昂畔眞 吟夜超種藏海樓 もともと韜晦、難解の詩なるも、敢へて王蒼海先生の援けを借りて意譯すれば 莫然と道に還へれば、文美萌(きざ)す 慢き雲滿つる中を摸すれば、誠の道を授く 八方 (逍萬)探し求む(探廼)昂の畔(滿州國の意ならん)の眞。 夜、世俗を脱して(超種)吟ず、藏海樓 と讀めり。あるいは讀み過ぎなるやも知れず 滿州國、いまだ暗中模索なるも、周の文王の美政、王道樂土の夢なきにしも非ずの意と解すこと可能なり。 この書に接して、余ハタと思ひつきしことあり。かつて奧山篤信氏の書齋に掲げられし書の作者が鄭孝胥なるを奧山氏に告げしことあり。奧山氏に電話し書の再見を所望せしところ、氏はその後古書肆にて、新たに鄭孝胥の書を見出し購入せし由にて、その二點を携へ越し賜へり。 その一は、既に奧山家にて拜見したるものにして、箱書に昭和八年とあり。曰く 江聲、奇絶を定め、氣涌くこと山を排す如し 寒を忍びて燈を吹きて坐すれば、風濤の間に 意を得たり。奧山先生雅屬孝胥 意味不明なれど暗き中に壯大の氣を祕めたる詩なり。實は小生奧山氏に電話するにあたり、「あの暗き詩は今もお持ちか?」と問ひたり。 新たに購められし詩に曰く 午雞聲(晝の雜音)は、禪林に到らず。 柏子煙中靜かに衾を擁す 忽ちに憶ゆ西巖道人の語、藜を杖とし輿に乘りて幽を尋ぬるを得る。丙子(昭和十一年春日)孝胥 傳記を尋ぬるに鄭孝胥は一九三二年建國と同時に總理大臣に就任し、一九三五年に辭任せり。 されば第一詩は、おそらくは、建國早々、いまだ前途に希望を見出さんとせし時期、第二詩は、就任一年を經て、前途に光明は失へるもなほ壯志已まざるときの詩、第三詩は辭任して悠々自適の時の感懷と想像さる。 王蒼海先生評 奧山氏岡崎研究所來訪の際、王蒼海先生の同席を慫慂せしところ快諾されしが、過日寄せ賜ひし、第一の詩の評に加へて、翌日第二と第三の書について感想を送り賜へり。曰く。 海藏先生の書(其二) 王蒼海 某日、粤王大人、余を招きて、奧山大人珍藏の書軸を示し玉ふ。立夏も過ぎて、書を愛するは銷夏の娯にて、朝倉女史も招きてしばし粤王寓にて幽賞やまず。 そのうち、海藏先生の書軸、余をして深く物を思はしめり。海藏樓集にも漏れたりとおもへば、これを手抄せり。 江聲定奇絶 氣湧如排山 忍寒吹燈坐 得意風濤間 奧山先生雅屬 孝胥 箱書きに、昭和八年十二月とあり。 余は、この「寒さを忍びて、ともし火を吹きて坐す」との暗澹晦冥の感覺に一種の詩意を興さざるを得ず。ともし火を消さば、滿洲の冬は尋常にあらず、人をして死に至らしむる也。轉句に暗澹絶望の裡に坐す境遇を敍し、結句は「得意風濤間」なり。騎虎の勢ひにて、命運に翻弄され、一時の權勢にありとの意なり。書ややや亂調、端正にはあらずやや狂草の味あり。これ、何の故ぞや。その解は、「氣」「排山」にあり。 力拔山兮氣蓋世 とは、虞美人草の故事に名高き霸王項羽の詩なり。楚漢の戰に利在らざるを知りつつも、項羽、江東の子弟を率ゐて吶喊したる故事これあり。されば、起句「江」字の背景にもこの消息を徴すべし。ただ「江」の奔流のみ「奇絶」の英雄は誰なりやを定むるべきのみとの詩なり。晦冥にして、意、深し。 松花河も十二月には凍結するものなれば、單純なる敍景詩にあらず、冬にその大河の聲を聞くは、心の耳にあらざるべからざるなり。時代の奔流に直面せざれば、詠むこと能はざる一種の述懷詩なり。 かかる暗澹なる詩を「奧山先生」に示したりとは何の謂ひぞや。王道樂土の太平を糊塗せずに、實直にその危機を訴ふるに足る一種の信義ありたりと見ゆといふべきのみ。落款は白文「鄭孝胥印」、紅文「蘇戡」なり。前清の忠臣鄭氏の失脚はその僅か二年後也。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |