侃々院>「安岡正篤を思ふ」岡崎久彦 |
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岡崎久彦 安岡正篤を思ふ 平成二十一年三月十四日、安岡正篤先生ゆかりの郷學研修所の年次研修會において講演するの機會ありき。 松籟の中、昔のままなる質素,清雅なる安岡先生の居室にて晝食のお辨當を頂き、先生生前の面影を偲ぶこと頻りなりき。 その際安岡記念館を拜見せしに、展示の中に終戰直前の先生の告辭あり。曰く。 昭和廿年八月十日全校ノ諸子ニ對シ痛恨極ハマリナキ一事ヲ傳ヘントス。・・・今朝(十日)ニ至リ廟議一決遂ニ・・・日本ハ自ラ敗戰ヲ認メ・・・敵國ニ降伏シタルナリ。 ・・・ 此ノ敗戰ノ後ニ來ルモノハ戰爭ニモ増ス苦痛ト紛亂ト屈辱トナルコト亦明瞭ナリ 小人奸人其ノ間ニ跋扈シ異端邪説横行シテ國民歸趨ニ迷フベシ 此ノ邦家の辱ヲ雪イデ天日ノ光ヲ復スベキモノ實ニ諸子ノ大任ナリ。・・・ 金雞精舍ニ於テ 安岡正篤 戰後六十年間、小人奸人跋扈し異端邪説横行せし、日本の状況を夙に洞察されしこと、明鏡の中を看るが如し。先生如何にしてかかる見識を得られたるや。おそらくは、遠くは漢,唐、宋、明衰退後の世相あるいは、近くは第一次大戰後のドイツの世情の歴史に通曉されし故ならむ。 余を迎へし荒井桂氏謂ふに、「生前安岡先生月旦されて曰く、『渡邊五郎三郎は君子人にして、岡崎は士君子なり』と。士とは、論語の言ふ四方に使ひして國を辱かしめずの意なりと」。すなはち外務官僚なるを以て「士」と呼び賜ひしならん。 かかることを自ら引用するの淺猿しきこと知らざるに非ず。しかれども、文語の苑は讀者尠く有識者のみなるを利して、從來とも一般公刊物には公表を憚る所感を表明し來るところにして、あるいは、後世、余が子孫にして祖宗と當時の識者との交遊に興味を持つ者あるやも知れず、敢へてこの場を借りて子孫に殘さんと思ひし、卑小なる心情、ご寛恕を得たし。 ついでに申し上ぐれば、昭和五十年日光における全國研修會において、安岡先生の講話あり、余もまた講師として招待せられたり。余、未だ四十五歳の一官僚なりしが、先生の生涯の祕書、故林繁之氏によれば、先生より「刮目すべき人物なり」としてたつての講師依頼ありたる由にて、うつかりと受諾せり。 大廣間の疉の上に、數百名の全國の武道家、漢學者端然と正坐して居竝ぶ正面に座布團二つあり。一は先生用にして、一は余のためなり。 當時余は正坐の習慣なく、その間の足の痛きこと言語に絶し、もじもじと姿勢落ち著かず滿座の蔑視を浴ぶるを感じ、生きたる心地なかりき。 その後、先生に書状を以つて正坐の未熟を詫び、以降正坐の練習を積みたり。 ▼「粤王寓」表紙へ戻る ▼「文語の苑」表紙へ戻る |