粤王寓>「岡崎偶感」岡崎久彦
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  平成二十年十月四日 
   西郷南州書軸



  余、韓國大使館在勤中、韓國文化を學ばんとして、日本時代より高名なる詩人、金素雲氏をしばしば自宅に招きて歡談せり。戰前、戰中、戰後の韓國の事情につき學びしこと多々ありき。
  余韓國を去るに當りて、氏「おセンチ(感傷的の意。昭和初期に常用されし表現)になりまして」と謂ひて、西郷南州の書軸を余に與へ、曰く「戰前釜山第一の富豪たりし、ハザマ氏の大廣間の床の間に常時掛けられしものなり。終戰後、小學校の校長に託され、その後、轉々としてわが手に渡りしものなり。餞別として貴兄に贈らん。日本人のものは日本人に返しましょう。」と。


  書に曰く、
  一枕 鳥聲 殘夢の裡
  半簾 花影 獨吟の中


 筆致雄渾にして、南州の書の中にありても特に逸品の評價高く、展覧會に出品せば常に中央に置かれ、剣禪書の達人、故寺山旦中氏編纂の名筆カレンダーにも掲載されしことあり。


   本年春、週刊新潮の『掲示板』に何か投稿する意圖なきやの問ひ合はせあり、ふと三十餘年來の疑問を解く機會ならずや、と思ひ立ち投稿せしところ、忽ち、敗戰時の迫間家の當主の令嬢、妹背せい氏(九〇歳)ならば知るところあらんとの投書あり。名筆カレンダーに掲載されし書軸の寫眞を同封して送りしところ、妹背せい氏より電話連絡ありたり。


 せい氏は、賤ケ岳七本槍の脇坂正治の後裔、脇坂子爵家より迫間家に嫁したる由にて、せい氏はすでに齡九十なれども、矍鑠、高ぶらず気さくにして、言語明晰、おのづからなる氣品ありき。
 氏によれば、たしかに大廣間(實は週刊新潮には單に広間と書きしが、金素雲氏の傳聞通り大廣間なりき。金素雲氏の記憶の正確さを證明するものなり)には南州の書軸ありしが、寫眞と同一のものか否かは、確認する術もなしとのことなり。
 なほ、夫君は昭和十六年に既に出征し、敗戰當時釜山に在りしはせい氏獨りにて、また本宅は當時使用人のみ居住し、この軸、小學校の校長に託せられし事實は知らず、とのことなりき。
 夫、武雄氏ならば、当時の事情も、書の鑑識も可能なりしならんも、既に逝去せられたる由、余、空費せし三十餘年の月日を改めて悔ゆること頻りなり。


平成二〇年十月四日、せい氏との電話の翌日、記。


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